「3.追憶の歯車」





グラスに注がれる赤い液体。
花が咲くような甘い香りが、室内に満ち溢れる。
「ミゼ」
すでに年老いたその人は、繰り返し繰り返し、私の名前を口にする。
まるで祈りの言葉のように。
「お前がいてくれたら、私は他に何も要らない。私の命が尽きるまで、ずっとそばにいてくれ。誰にも連れて行かせやしない」
なぜ、そんな言葉を繰り返すのか。その頃の私にはわからなかった。
ただ、はいお父様、と。
返事をするだけで、年老いたその人は、子守歌を聞く子供のような顔をする。
心地よさそうに微笑んでくれる。
「ミゼ、もしかしたら、私がいなくなった後、悪い輩が来て君を連れて行こうとするかもしれない。決してここから出てはいけないよ。私がいなくなったあとは、誰にも会わずに、隠れて暮らしなさい。必要なものはすべてここにある」

私が自分が機械人形だとわかっていた。
お父様と、あるいは外で暮らしている他の人間とは違うのだということ。
だけどそれは私にとっては何も問題にならなかった。
ときおりお父様の客人として訪れる人たちが、私を見ては奇異な目で眺めていくことがあった。
あるいは、私を見てなんらかの賛美の言葉を向けることがあった。
お父様はあまり喜んではいなかったので、本心の賛美ではないのだろうと私は思っていた。

あるとき、お父様は私に言った。
「地下室に隠れなさい」と。

その頃、国で機械人形が禁止されて、貴族たちが大事にしていた機械人形たちは、次々と廃棄されていたのだそうだ。
命令に背いて機械人形を差し出さなかった貴族は、罰を受けることになり、兵隊がお屋敷にやってきて、所有している機械人形も無理やり連れていかれると。
だから、誰にも見つかってはいけないよ。と、お父様は私に言いつけた。

もしも私が帰ってこなくなっても、決して屋敷から出てはいけないよ。
お父様の言葉を守って、ずっと隠れて暮らしていた。

「どうしよう……、燃料ワインがもう残りわずかしかないよ」


私と同じ顔をしている、もう一人の機械人形。
レグが私に不安そうな表情を向けて縋り付いてくる。

「大丈夫よ、大丈夫よ。お父様がきっと、もうすぐ帰ってくるわ」
「お父さまが帰ってこなかったらどうするの、もう一年近くも帰っていないのに」
「……じゃあ、探しに行きましょう」

音信不通になったお父様が、どこにいるのか、無事でいるのかなどわかるすべもなかった。
だけどここでじっとしていたら、私達は錆になるだけだ。

「お父様の知人の機械ソムリエが、どこかにいるはずだって」
「でも、外に出てはいけないって言われたのに」

そうだ。言いつけを守らなくてはならないと考えると、私達はここを出てはいけない。
言われた通り、ここに隠れていなくてはならない。

「私はここで待ってるわ。ミゼ、あなただけで外を見てきてちょうだい」


レグの燃料は私よりもっと乏しかった。じきに動けなくなってしまうのは目に見えていた。
私だけだったら、外に出たりしなかったかもしれない。
でも、レグが動かなくなってしまうことが怖かった。
私を残して、レグが本当にただの動かない人形になってしまうことが怖かった。
私を一人にしないで……。
そんな祈りも虚しく、レグは動かなくなってしまった。






「それで、燃料ワインを探しにきたんだね」
スミスは私の話を聞いても、ただ表情を変えず頷いていた。
「警戒しないで聞いてほしい、僕はね、おそらく君のことを知っている。君は、ヨハン侯爵のご令嬢ではないだろうか」
ヨハンはお父様の名前だ。
「お父様を、知っているんですか」
私は、鼓動が早まる胸を押さえながら、瞬きを繰り返す。
「ああ、うん、そうだろうね。機械人形の生き残りと会ったら、まず予想がつくのは彼のことだ。かの侯爵は、自分の亡き娘を偲んで、娘にそっくりな機械人形を作らせたという話だ。他の貴族がこぞって機械人形を持ちたがり、結果、機械人形を持つことも作ることも禁止された後も、彼は自分の愛する機械人形をずっと隠し続け、結局今も見つかっていないと聞く。君の話とも一致するしね」
「お父様は、私たちに決して屋敷から出ないように言い残してから、ずっと帰ってきていないんです。お父さまは、無事なんですか」
「それは……」
言葉を濁し、表情を陰らせるスミスの様子から、良くない返事であることは明らかだ。
「ヨハン侯爵は、心臓が弱っていたんだね。御高齢なのもあって」


お父様はやっぱり、もう帰ってこないのだ。

「だけど、君が来ることはわかっていたよ。僕は、君と会えるのを待っていた。君を助けたいんだ。あの人と約束したから」





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