急がなきゃ。
早く燃料を手に入れないと、私の身体もじきに動かなくなってしまう。
もうあまり時間がない。

人の気配がする。誰か来たようだ。
こんな真夜中に誰も倉庫に入ってこないだろうと思ったのに。
作り物の心臓が、軋むように歯車を回している。感情と連動している機械の鼓動。
お願い、今だけは何の物音も立てないでほしい。
もし隠れているのが見つかったらどうなるんだろう。

「そこにいるのはわかってるよ。お願い、怯えないで」

そっと囁く声が聞こえた。
今のは私に向けられた言葉のようだ。

「僕は君を助けに来た。ミゼ……」

どうして。私をその名前で呼ぶの。
歯車が軋む音がする。極度の緊張で鼓動が乱れた心臓が、潤滑油の巡りを狂わせた。
ああ、燃料さえあれば、この程度のことで気を失わなくて済むのに。



柔らかい木綿の布地の感触が、肌を包んでいる。
この機械の身体で、意識を失うなんて、いつ以来のことだろう。
いいやそうでもないか。ちゃんと手入れをしないと、機械人形の身体は、生身の人間の身体よりもよっぽど壊れやすくて脆いものだと、自分でもよく知っている。
いいや、今はそれどころじゃない!
寝かされているベッドの上で、現状を確認しようと、そっと視線を周囲に巡らせると。
私の顔の真横で、幼い少年の顔が、じぃっと私の顔を覗き込んでいた。
「ひゃっ!」
「あ、起きた起きた。お兄ちゃん、お人形さん、起きたよ」
うっかりした……。周囲に誰かいるかどうか、動く前に感知すればよかった。
驚いて思わず声を上げてしまった。
「あ、よかった。勝手に目覚めてくれたかぁ。なら、壊れてるわけじゃなかったんだね。修理の必要はなさそうかな。よかったよかった」
のほほんと間延びした声が、少し離れたところから聞こえてくる。
「スープ温めたよ。飲む? 具合はどうかな?」
声の主は、一八、一九歳ぐらいに見える男の人だった。
顔だちも体つきも華奢で、中性的な印象を受ける。襟元まで伸ばした黒髪は、黒曜石のように艶やかな光沢をしていた。
柔和な笑みを浮かべて、湯気の立つお盆を両手に持って、私の寝かされているベッドへ向かってくる。
昨日、ワイン倉庫に忍び込んで、誰かに見つけられたところまで覚えている。
恐らく、その時の人影も、私をここへ運んできてベッドに寝かせたのも彼なのだろう。
でも一体何のために? ワインを盗もうとして、酒蔵に忍び込んだ私を、匿う理由が全くわからない。
もし考えられる理由があるとすれば、私の正体を知っていることしか。
「僕はスミス。心配しないで。君が気を失っている間に、燃料は補充しておいたよ。不具合がなければしばらくは問題なく動けると思う。だから安心して。勝手に、ごめんね」
私の心を読んだかのようなタイミングで、黒髪の彼……スミスは、私の表情を見て小さく苦笑した。
「僕は、機械ソムリエだ。だから怯えなくていい」


機械人形が作られるようになった時期は、今からおよそ一五年前。
貴族の退屈しのぎとして、人間そっくりに作られた人形は、機械人形師達の優れた技術によって、人と同じように動き、言葉を交わし、笑い、良い話し相手になり、時に召使のように動いてくれた。
貴族たちは、愛玩用の動物を飼うように、あるいは希少な骨董品を集めるように、より美しく性能のいい、人間そっくりな機械人形を手元に置きたがった。
しかしあるとき。
ある貴族が、若くして死んだ娘を憂いて、亡き娘にそっくりな機械人形を作った。
それを見た別の貴族が、己の肉体が死した後も機械の分身となって生き続けたいと言って、自分にそっくりな機械人形を作らせた。
その頃から、貴族たちの人形遊びは、一種儀式めいた異常な執着を巻き起こすようになった。
人形が人間の代わりになるような、度を越えた人形遊びは、波紋を巻き起こすと危惧した国王が、死者の分身としての機械人形を作ることを禁じた。
しかし、自分の分身としての機械人形を求める者は後を絶たず、亡くした誰かの代わりのための機械人形も増え続けた。
良くない兆候と見なした国王は、機械人形を持つことを禁じ、機械人形を作らせることを禁じた。
当時、腕を振るっていた機械人形師達もいつの間にか姿を消した。国王が、人間よりも優れた機械人形を恐れて、国外追放したのか、あるいは秘密裏に皆処刑されたのではないかと噂されている。
ともかく、機械人形は十数年前に多く作られ、そのわずかな間にほとんど姿を消した。そのはずだった。

「機械人形師たちは姿を消したけれども、実は、機械ソムリエはわずかながらまだ生き残っているんだよね。ああ、機械人形に、燃料を調合する技術を持った人形師のことを機械ソムリエと言うんだけど。って、君にはわざわざ説明する必要はないかな。君も機械人形なら、そのぐらい知っているよね」
「ううん……。ありがとう。本当のことを言うと、なぜ急にお父様たちが、何も言わずに屋敷から消えてしまったのか、ずっとわからなかったの……」
スミスは私の身体に不調がないか調整してくれた。お父様から、自分の身体の調子を整えるための方法はある程度教わっていたのだけれど、それ以上のことは自分ではできなかったので、とても助かった。
「スープ飲む? ああ、もちろん人間が飲むためのスープと同じじゃなくて、機械人形の身体の内側の錆や埃を濯ぐための、洗浄湯みたいなものなんだけど。おなかの中がすっきりするよ」
促されるままに、私は差し出されたスープの椀に口をつける。ほんわり温かくて、美味しい。お屋敷でよく出してもらってたスープと味が似てる。
「へぇ。機械人形でも味がわかるの? それ、おいしい? ボクもひとくち味見してもいい?」
ベッドの横で私を見ていた小さな男の子が、興味津々に覗き込んでいる。人をじっと見つめる癖があるらしい。丸くてくりくりした大きな瞳が愛らしい。
「お。研究熱心なのは良いことだねテイル。ひとくち飲んでみる? 人が飲んでも害はない材料を使ってるからね。僕も、夕飯の材料が足りないときは機械人形用のスープを飲んだりしたなぁ。ははは。テイルも機械ソムリエになりたいなら、味見しておくといいよ」
「あの………」
おずおずと、声を出す。
「どうして、私が機械人形だとわかっても、お役所につき出したり、誰かに知らせたりしないんです……? だって、もし私が見つかったら、あなたたちが捕まってしまうのに」

「機械ソムリエの僕に、それを聞く?」
スミスは微笑む。
「君みたいに、隠れて生き残ってる機械人形が少なからずいるからね。そんな彼らを手助けしているんだ。機械人形だけじゃない、僕みたいな機械ソムリエや、機械人形師だってまだどこかに隠れているかもしれない」
そう言って、部屋の片隅にあった椅子を引っ張りよせて、ベッドに腰かける私に向かい合って座る。
テイルはテーブルでスープを飲んでいる。機械用か人間用かはわからないけど、美味しそうな匂いがしている。
同じ部屋に誰かがいる、というのも、よく考えたら久しぶりの居心地だった。
「さて、そろそろ聞かせてくれないかな。君は誰で、どこから来て、どうやってここに来たのか。君の素性を」
私は、深く息を吐く。
「お願い、助けてください、私の分身を……。私と一緒にお父様が遺してくれた、わたしと同じ機械人形が、もう一人いるんです」









グラスに注がれる赤い液体。
花が咲くような甘い香りが、室内に満ち溢れる。
「ミゼ」
すでに年老いたその人は、繰り返し繰り返し、私の名前を口にする。
まるで祈りの言葉のように。
「お前がいてくれたら、私は他に何も要らない。私の命が尽きるまで、ずっとそばにいてくれ。誰にも連れて行かせやしない」
なぜ、そんな言葉を繰り返すのか。その頃の私にはわからなかった。
ただ、はいお父様、と。
返事をするだけで、年老いたその人は、子守歌を聞く子供のような顔をする。
心地よさそうに微笑んでくれる。
「ミゼ、もしかしたら、私がいなくなった後、悪い輩が来て君を連れて行こうとするかもしれない。決してここから出てはいけないよ。私がいなくなったあとは、誰にも会わずに、隠れて暮らしなさい。必要なものはすべてここにある」

私が自分が機械人形だとわかっていた。
お父様と、あるいは外で暮らしている他の人間とは違うのだということ。
だけどそれは私にとっては何も問題にならなかった。
ときおりお父様の客人として訪れる人たちが、私を見ては奇異な目で眺めていくことがあった。
あるいは、私を見てなんらかの賛美の言葉を向けることがあった。
お父様はあまり喜んではいなかったので、本心の賛美ではないのだろうと私は思っていた。

あるとき、お父様は私に言った。
「地下室に隠れなさい」と。

その頃、国で機械人形が禁止されて、貴族たちが大事にしていた機械人形たちは、次々と廃棄されていたのだそうだ。
命令に背いて機械人形を差し出さなかった貴族は、罰を受けることになり、兵隊がお屋敷にやってきて、所有している機械人形も無理やり連れていかれると。
だから、誰にも見つかってはいけないよ。と、お父様は私に言いつけた。

もしも私が帰ってこなくなっても、決して屋敷から出てはいけないよ。
お父様の言葉を守って、ずっと隠れて暮らしていた。

「どうしよう……、燃料ワインがもう残りわずかしかないよ」


私と同じ顔をしている、もう一人の機械人形。
レグが私に不安そうな表情を向けて縋り付いてくる。

「大丈夫よ、大丈夫よ。お父様がきっと、もうすぐ帰ってくるわ」
「お父さまが帰ってこなかったらどうするの、もう一年近くも帰っていないのに」
「……じゃあ、探しに行きましょう」

音信不通になったお父様が、どこにいるのか、無事でいるのかなどわかるすべもなかった。
だけどここでじっとしていたら、私達は錆になるだけだ。

「お父様の知人の機械ソムリエが、どこかにいるはずだって」
「でも、外に出てはいけないって言われたのに」

そうだ。言いつけを守らなくてはならないと考えると、私達はここを出てはいけない。
言われた通り、ここに隠れていなくてはならない。

「私はここで待ってるわ。ミゼ、あなただけで外を見てきてちょうだい」


レグの燃料は私よりもっと乏しかった。じきに動けなくなってしまうのは目に見えていた。
私だけだったら、外に出たりしなかったかもしれない。
でも、レグが動かなくなってしまうことが怖かった。
私を残して、レグが本当にただの動かない人形になってしまうことが怖かった。
私を一人にしないで……。
そんな祈りも虚しく、レグは動かなくなってしまった。






「それで、燃料ワインを探しにきたんだね」
スミスは私の話を聞いても、ただ表情を変えず頷いていた。
「警戒しないで聞いてほしい、僕はね、おそらく君のことを知っている。君は、ヨハン侯爵のご令嬢ではないだろうか」
ヨハンはお父様の名前だ。
「お父様を、知っているんですか」
私は、鼓動が早まる胸を押さえながら、瞬きを繰り返す。
「ああ、うん、そうだろうね。機械人形の生き残りと会ったら、まず予想がつくのは彼のことだ。かの侯爵は、自分の亡き娘を偲んで、娘にそっくりな機械人形を作らせたという話だ。他の貴族がこぞって機械人形を持ちたがり、結果、機械人形を持つことも作ることも禁止された後も、彼は自分の愛する機械人形をずっと隠し続け、結局今も見つかっていないと聞く。君の話とも一致するしね」
「お父様は、私たちに決して屋敷から出ないように言い残してから、ずっと帰ってきていないんです。お父さまは、無事なんですか」
「それは……」
言葉を濁し、表情を陰らせるスミスの様子から、良くない返事であることは明らかだ。
「ヨハン侯爵は、心臓が弱っていたんだね。御高齢なのもあって」
お父様はやっぱり、もう帰ってこないのだ。



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