・第二十五章





 ツンとした香りがした。
 精油を蜜蝋に混ぜたときの匂い。
 花に葉に根、種。刻んで、熱湯に浸して・・・。
 
 作らなきゃ。お薬を、作らなきゃ。
 眠っている魔法を呼び起こす。

 お鍋に湯を沸かして蜜蝋を湯煎で溶かす。
 植物油をゆっくりと加えてガラス棒で混ぜる。
 干して乾燥させた花びらを。
 手で崩して、散らして。刻んで。浸して。煮詰めて。抽出する。

 ・・・・・・・瓶に詰めて、蓋をする?
 そうして時間を止めてしまうの。
 効き目が逃げてしまわないように。
 とろとろ、とろとろと、油の中に沈んで、溶けて、眠る。
 

 このままとけてねむってしまいたい
 

 ねぇ。
 どうしても、こうするしかなかったの?
 
 こんな時間は、もう二度と戻ってこない。壊れてしまった。
 
 あの子。
 名前は何だったっけ。
 最初に会ったのはどこだったっけ。
 血の匂いと、薬の匂い。
 手を差し伸べずにはいられなかった。
 沢山の傷を体に隠しているのがわかったから。
 あなた、名前は。あたしは彼女に尋ねた。

 そう、そしたら。
 震える紅い唇は、彼女によく似合う、花の名前を告げた。
 差し出した手は真っ白で。とても綺麗で。
 びっくりするくらいに、冷たかった。
 
 綺麗な女の子。
 ここから、逃げよう。
 あなたの手が作れるものがあるはず。
 お願い、あたしを手伝ってほしい。
 だからあたしは、あなたを助ける。
 
 ・・・・・・あのときの言葉は、一体、いつ壊れていたのかな。
 最初からか。
 そうね。
 ずっと前からだね。

 気づくべきだった。
 もっと、もっと早く気づくべきだった。
 あの子は、ずっと前から、あたしが助けたかった女の子だ。
 ううん、違う。
 あたしが彼女を助けたんじゃない。
 彼女にあたしが、助けられていたんだ。

 綺麗な手。
 白い指先。
 透き通る爪。
 薬の匂い。
 か細い呼吸。
 
 無理をして浮かべた微笑。
 「大丈夫だよ」って繰り返して。
 そんなはずないのに。
 あたしが作った薬も、しまいには何度も吐くようになって。

「・・・・苦しいことを、忘れられる薬って、ないのかな」

 そんな薬、ないんだよ。
 どこにも、ないんだよ。
 
 あたしは、そんな薬を作りたかったよ。

 花びらが、一枚ずつ散っていく。
 さぁ、薬と作ろう。
 苦いよね。
 うん、そんなの知ってる。知ってるよ。
 殻を剥いて。
 ナイフで切り込んで。
 これが必要なんでしょう。
 大切な命のかたまりが、ぎゅっと凝縮した種の部分が。
 溶液に浸して、成分が染み込んだところ。
 間違って崩しちゃダメだよ。大切に使ってね。


 シュエ。
 あなたの名前は、白い花の名前。
 サフラ。
 再び会ったときに、あなたがあたしに告げたのは、紅い花の名前。
 ごめんなさい。
 そのくらい、痛かったんだね。
 ・・・・・・やっぱり、許してくれないんだね。

 治したかった。治したかったよ。
 でも、できなかった。あたしは何も作れなかった。
 だから、仕方ないんだ。
 あたしにはもう、これしか、できることがない。

            


 シュエに薬を打たれて、体が動かなくなって・・・・・それまでは覚えている。
 胸を切られても、痛みは感じなかった。
 ただ、刃先が骨に当たるときの、ゴツゴツした振動が脳髄に響いてきて、気持ちが悪かった。
 血と一緒に、自分の中から意識と熱がどんどん抜けていって。
 寒く、だるく、眠くなっていった・・・・・・。

 
 しぬんだな。あたし。
 しぬことで、あたしはゆるされるんだろうか。
 しねば、シュエはゆるしてくれるんだろうか。
 

 あなたの傷。
 あなたの痛み。
 あなたの声。


 できれば、気づいてあげたかったよ。
 できれば、あたしが治してあげたかったよ・・・・・・。




  「―――いつまで寝てるんだ、このボケ」

  
 
 乱暴な声が、いきなりあたしの意識の中に降って来た。
 
 
 
 
 ・・・・・・・・・えええ???


 
 「あ・・・・・・っ?」


 声が、出せる。
 息が、吐ける。
 まぶたを開けば、光が飛び込んでくる。
 数度瞬きを繰り返せば・・・・ぼんやりと、見覚えのある天井らしき眺め。
 
 指を、動かす。
 体が、ある。

 途端に、体に電流を流されたような衝撃を感じた。
 反射的に跳ね起きた。

 「あ・・・・・あ・・・・・・?」
  
 ・・・・・・息が、できる?

 手が動くこと。
 目が物を映すということ。
 自分が自分であるということ。
 体がここにあるということ。
 
 全てがひどく奇妙で、違和感のあることに思えた。信じられなかった。

 恐る恐る、手を、口元に持ってきては、自分が息をしていることを確かめる。
 吐く息が通る喉に触れる。そして、そのまま自分の体をなぞって・・・・・・胸に触れた。

 あたし、生きている。

 全身が凍りつくような凄まじい記憶がよみがえる。
 自分は・・・・・・・・殺されたはずだった。

 細いナイフの刃が、体の中に潜り込んだ。
 首から下は麻酔のためにまったく動かせなかったけど・・・・・。
 溢れた血が全身を浸したのを覚えている。
 骨を切り取られたときの揺さぶられた振動を覚えている。
 動脈を切られたときの、ぶつっ、っていう音。
 だんだん息ができなくなって・・・・・・目の前が暗くなっていく感覚・・・・・。
 重くて暗い沼の中に沈んでいくような・・・・・。

 なのに、胸には傷跡は何もなかった。服さえそのままだ。
 触れれば熱があり、呼吸と鼓動を繰り返す、あたしの体。
 まるで何事も無かったかのように。

 そんなはず・・・・・・・。

 そして気づいた。
 自分が今さっきまで横たわっていた、カーペットの床。
 そこには一面に、赤黒く染み込んだ血痕が広がっていた。

 
 夢じゃない。
 途端に息が詰まった。

 
 確実に一度、自分が死んだはずの血痕を見て、あたしは少し吐いた。
 とはいっても、何日も何日も薬の毒に蝕まれていたために、ろくに何も食べてなかったから、吐いても胃の中には何もない。そのほうがよっぽど不快だった。
 少し落ち着くと、誰かが、グラスにぬるいお湯割を用意して差し出していることに気がついた。
 どうして彼がここにいるのだろう。
 黒い髪、黒ずくめのいでたちの男の人。
 不思議な声を持った、自称“魔法使い”。

 喉がカラカラで焼け付くように痛くて、口の中を洗い流したかった。
 何も考えずにそれを受け取って飲むと、ほのかに蜂蜜の味のする、薄い果実酒の香りがした。
 手にしたグラスからほのかに伝わってくる熱が心地よかった。
 血の匂いを振り払いたくて、一口、また一口と口の中に含むうちに、ようやく気持ちが落ち着いて、正気に帰ってくることができた。


「ラック・・・・・・・」
「ああ」


 返事をするということは、幻じゃないらしい。


「・・・・・・あんたが、あたしを助けたの」
「どうやらそうらしいな」


 あたしがお湯割りを飲むのを眺めていた彼は、わずかに唇の両端を持ち上げる。
 からかうような、楽しんでいるかのような微笑。
 あたしの横で彼は、一人でウイスキーをソーダで割ったものを飲んでいた。
 お店に来ていたときあたしがよく作っていたのを、自分でも覚えてしまったのだろう。


「これは、あんたの"魔法”なの」
「まぁそう思うならそういうことにしておこうか」


 傾けたグラスの中で、氷が、からんと音を立てた。


「どうしてあたし生きてるの・・・・・・・・?」


 呆然とつぶやいた言葉に返事は無かった。


「シュエは・・・・・・シュエはどこへ行ったの」

「消えたよ」


 ラックの返答は、信じられないほどにひどくあっさりしたものだった。
 ほの甘い果実酒の味が、一瞬で消えた。






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