・第二十八章





 ああそういえば。
 いつの夜のことだったっけ。


「ねぇ、リズ・・・・・・」
「どうしたのサフラ、眠れないの?」


 普段はいつも穏やかな表情を浮かべている彼女が・・・・・・
 なぜかひどく、思いつめた顔をしていた。


「誰かを・・・・どうしても許せないと思ったことはある?」
「そうね。あったかもしれない」

「殺したいくらい、憎いと思ったことはある・・・・?」

 すぐに答えることはできなかった。
 だけど返事は決まっていた。

「あるよ」
「そんなときはどうする・・・? どうすれば忘れられるの・・・・?」

 どうすれば忘れられるの。
 ・・・・・・何を思い出して、そんなにおびえてるんだろうね。


「いいじゃない、忘れなくても」


 今宵の恋人は、ブラック・ルシアン。透明なグラスの内側に満ちる褐色。
 闇色の強い酔いは、容易く意識を呑み込んでいく。
 
 
「許せないなら、許せないままでもいいじゃない。どんなに苦しくても、過去は変えられないんだもの。全部忘れて、無かったことになんてできないでしょう?」


 淡々とグラスを傾けるあたしへと向けられた・・・大きく見開かれた翠色の瞳。
 今は偽物と知っていても。
 やっぱり綺麗な色だった。

 たとえ走馬灯の中の幻でも。


「自分の気持ちを無理に否定しなくていいよ。それでいいじゃない・・・・・・」



 だからあなたは。
 そのままでいい。




 どうしたの、サフラ。

 眠れないの・・・・・・?












 どこからか風が吹き抜けていた。
 荒れ果てたコンクリートの上を。
 そのかすかな風に乗って、寂しげな旋律が流れている。
 ポン、ポン、と心に直接触れてくるような音色。よく響く、弦の音。


 「綺麗な音だね・・・・・・」


 冷たいコンクリートの上に、体を横たえたまま、つぶやく。
 そして、ただじっと、カルマの指先を・・・・キラキラした六本の弦を見つめていた。
 

 「何の音に聴こえる?」
 「そうだね・・・、一人ぼっちの子猫が、ひなたでうとうとしてるみたいな・・・・・・・」


 彼が弾く音が見せてくれるのは、淡い、白い、優しい夢。
 これがあなたの魔法なんだね。
 錆びついた血の匂いを、洗い流してくれる音。


 「カルマ・・・・・・、あたし、ね・・・・・・」


 魔法使いは、ただ静かに、微笑む。
 何も言葉はくれないけれど。
 望む音色を与えてくれる。


 「独りで死ぬのが、怖かっただけなんだよ・・・・・・」


 永い間凍っていた時間が。
 今やっと、溶け始めた。


 誰かにこの声を聴いてほしかった。
 苦しみに気づいてほしかった。
 人と繋がることができないまま、死にたくなかった。
 心を病ませていたのは、薬なんかじゃない。
 孤独。ただそれだけ。

 届かない叫びは胸に重く留まり、癒えることの無い傷は、血を流し続ける。
 苦しみから逃れたくて、代わりに何かを憎んでいた。
 憎しみは更に心を重く濁らせた。
 それでも、死ぬのが怖かった。
 死は、解放なんかではない。
 消滅だった。

 他の何を犠牲にしたとしても、助かりたいと願った。
 そんな醜い自分から逃れたかった。
 

 それだけだった。



 「ひとりじゃないよ」


 
 魔法使いの音色が、途切れた。



 「サフラ・・・・・・・・・・」



 リズが。
 そこに立っていた。


 泣き出しそうな顔で、たたずんでいた。
    




 「リズ・・・・・・・どうして、生きてるの・・・・・・・・」 


 胸に重くのしかかっていたものが、少しずつ溶けていくような。
 不思議な安堵を感じていた。
 自然と、笑みがこぼれていた。


 「ああ・・・・・・そうか、あたしやっぱり、あなたのこと、殺せなかったみたいだわ・・・・・・」


 眠かった。
 夢を見ている気分。

 ああ、やっとあたしの悪夢は癒されたのかな。


 「あなたの心臓・・・・結局、使えなかったの・・・・・薬にできなかった・・・・・」


 これ以上傷つけて、切り刻むことができなかった。
 あなたが呼びかける鼓動の声が、この手を通して、聴こえてしまったから。


 鼓動の止んだ、紅い雫の滴る種は、そのまま土に埋めた。
 なんだ。いつのまにか、元の場所へ還っていたのね。


 「サフラ・・・・・・どうして・・・・・・・」


 あたしが殺したはずの人。
 昔、あたしを殺したはずの人。


 その彼女が、今、あたしの手に触れて、目から涙を落としていた。


 「あたし・・・・あなたを助けたかった・・・・気づいてあげたかったよ・・・・。
 ごめんなさい・・・・本当にごめんなさい・・・・・・・」


 ううん。
 リズなら作れるよ。
 人を幸せにする『薬』。

 やっとあたし、治してもらえた。

 これで・・・やっと・・・・・・。


『生きることが楽しくなる薬ってないのかな』


 昔、あなたにそう言った。
 ごめんなさい。
 そんなものはどこにもないんだよね。

 幸せになれる薬ってないのかな。
 ないんだよ。


 なぜなら。
 幸せになれる薬の正体は、苦しみなんだ。
 

「サフラ・・・・また一緒に、お店やろうよ・・・・。
 一緒に、お薬作ろう?
 美味しいお酒飲んで、笑って・・・。
 そして、苦しんでる誰かを助けようって・・・。
 ねぇ・・・・
 またあたし、誰も助けられないの・・・・・?
 助けたかったよ・・・・・・・!」


「ううん・・・助けてもらったよ」


人を幸せにする薬、そんなものが、もしあったなら・・・・・。


「リズなら、作れるよ、そんな薬が・・・・・」


 最初は、ほんの小さな病。
 この世は、病ばっかりだ。
 まるで無数の、細い蜘蛛の糸のように、あちこちに張り巡らされていて。
 たやすく捕らえられてしまう。

 ならば、あなたを導く花になりましょう。

 沢山苦しんで、苦しんで。
 さぁ。
 
 幸せになりましょう?


「やっとあたし、治してもらえた・・・・・・」


 微笑んで。
 リズの、濡れた頬に手を伸ばす。


「・・・・・シュエ・・・・・?」


 ああ。
 やっとあたし、誰かにみつけてもらえた。


 蝶の夢はもう、見ない。
 蒼い海をこえた楽園の向こう。


 だからもう、大丈夫。





 ありがとう。
 





 おやすみなさい。













 
 白い月が夜空で唄う
 バラード調のレクイエム

 一つの物語のしめくくり
 耳をすませてみる
 今度こそ狂うことがないように
 この手でつかまえておこう

 一人の少女が息絶えた
 鼓動の音が導いたのは

 歯車の在処


 「この花か・・・・・・」


 薬屋達の花畑
 赤、黄、紫、白、緑
 色とりどりの花が香る
 その中にひっそりと咲く十字の花


 「良い曲が作れそうか?」

 
  カチリ カチリ カチリ

 死を誘う蝶を招き寄せた花
 破滅の歯車をかき回していた香


 昔、聖者が磔にされた時に咲いたという蒼い花
 
 ここに隠れていたんだな


 「この世界は壊させはしない」

 歪んだ音色に終止符を。
 手を伸ばすと、蒼く咲く花は、一個の懐中時計に姿を変える。


  カチ・・・ン・・・・・・

 
 回り続けていた時計の針が、ぴたりと止まる。
 これでようやく、この世界の時間は正常に流れていく。
 解き放たれた蒼色が、空に広がる。


「この花がアズラエルの原料になっていたのか」

「そのようだな」


 カルマは灰色の石の上に腰を下ろして、煙草の煙を静かに吐く。


「多幸感と解放感・・・だがそれは幻覚を招き、やがて中毒症状を引き起こす」


 時計草。
 手のひらに摘み取った花をじっと眺めていた。止まった秒針を咲かせていた。
 

 これでこの街も正常になるはずだ。
 永い時間がかかるかもしれないけど。

 諦めない限り人は歩いていける。
 傷がふさがる頃にはきっと、乾いた土に白い花が咲く。



 君の声は確かに届いていたよ。











紫の蝶が暗闇で眠る
旅立つ夜を待っていた
愛しい人の腕に安らいで
白い朝が来るのを待っていた



眠りについていたとき、スタリオはふと夜中に目を覚ました。
ベットの傍らが抜け殻になっていることに気がついた。
薄暗い中ぼんやりと、伸ばしたてはただ宙をつかむ。


「ユーナ・・・?」


横たわるのは、蜻蛉の羽の白い紗。

今までずっと眠っていた。
長い夜の中にいた。

月明かりの差し込む窓辺に立っていた。
まだ夢の中にいるような光景だった。


「声が・・・聴こえたよ・・・スタリオ・・・・・・」


声。
一体何年ぶりになるのか。久しく彼女の声を聴いていなかった。
虚ろにこぼれる呻きではなく、彼女がその唇で、言葉をつむいでいる。


「お前・・・正気に戻ったのか」


悪夢の蝶に連れて行かれていた、彼女の魂。やっと帰ってきたのか。


「目を覚ましたのか・・・・・・・? ユーナ」


今までずっと届かなかった言葉が。
やっと。

聴こえた。


「ずっと私・・・・・・怖い夢を見ていたの・・・・」



まだ信じられずに呆然としているスタリオへと、そっと白い腕を伸ばす。
繰り返し傷ついた、蝋のような体。
今は何の匂いもしない。



「綺麗な花がいっぱい咲いてる場所にいた・・・・。でも私、そこから動けずにいたの・・・・。ずっと。
 黒い、恐ろしい狼がこっちを見ていた。でも私、逃げられなくて」



永遠に思える永い夢。
綺麗で、そして恐ろしい夢。



「でも・・・あなたの声が聴こえて、やっと私、きづいたのよ・・・・。
 あの狼はあなただったんだね」



薄紅色の唇が、儚げに小さく微笑した。



「ずっと傍で護っていてくれたのね・・・・・・」



手を伸ばす。
か細い肩を抱きしめた。
もう二度と、怖い夢に連れて行かれないように。



「何も怖くなんてなかったのに・・・・ずっと気がつかずにいて、本当にごめんなさい・・・・・・」



大丈夫。
たとえ君が永遠の眠りについたって。
きっとこの手を離さない。



「スタリオ」



愛しい人の名前を呼ぶ。
悪夢を消し去る呪文のように。
長い夜はようやく明けて。
淡いオレンジの朝が来る。



「おやすみなさい・・・・・・・」



甘いささやきが「ありがとう」の言葉。
柔らかな微笑みは「愛してる」の言葉。



大丈夫。ちゃんと聴こえた。
瞳を閉じて委ねた体から、落ち着いた呼吸のように、静かに力が抜けていく。
求めていたのは、温かな安らぎ。


ずっと傍にいる。たとえ夢の中で暮らしていても。


いつかそっちに行って会えるときまで。
待っているよ。








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