あなたを想う心は
小さな炎のようで

手を伸ばせども 触れるのは
身を焼く暗い痛みばかり ・・・ ・・・・・






「でね、こっちは、ブラックベリーと木苺を二種類、あらかじめ清酒に漬け込んでから発酵させてみたの。
 普通に葡萄だけで作るワインより断然美味しいんだから。栄養価もバランス良くなるし、後味がすっきりしてるのー」

棚に並べてある瓶を、一つ一つ手にとって、漬け込んだ果実の状態を確認する。


「これでもいいと思うんだけど、どうかなー・・・。あまり長く漬け置くと、苦味が出てくる場合があるからなー・・・。
 ねぇ、スタリオもちょっと味見し・・・・・・」


「リズ」



振り返ったとき。
頭一つ半は背が高いはずの、スタリオの顔が、あたしの目線とほぼ同じ高さにあった。
ついさっきまで気楽に話しかけていた笑みが、消え去った。自分の頬が硬直するのを感じた。
迷いなく近づく、唇。


 拒(よ)けなかった。


手には酒瓶を抱えていて、身動きすれば、床に落として割ってしまう。
それを叩きつけてしまう気にもなれなかった。
せっかく熟成させた果実酒をダメにさせてしまうのが惜しかっただけ。ただそれだけだった。


身動き一つ・・・瞬き一つ、しなかった。
心が急速に冷えていくのを感じながらも、その一秒を、拒けなかった。


一瞬の時間が酷く長い。薄明かりの倉庫の中で、冷え切った静寂が空気を穿つ。
耳鳴りが響くほどに、痛いほどに静かだった。
 


 その一瞬が

  危うく熟れた ひとしずく



「・・・・・・何の、冗談?」 



一呼吸置いて、最初に口から出た言葉は、思いのほか尖っていた。



「ふざけてるの?」



「お前には・・・言葉で言っても、聞いてもらえないと思っていた」
「何が? ・・・ああ、そう。別にお酒の味見なんてする気はないってこと。別にいいわよ。そんなことどうでも」


手に持っていた瓶を、棚に直した。
紅い果実が再び、暗がりで眠りにつく。
誰かの唇に届く日まで。


「もう、こんなことよせ・・・。お前がそんなに何もかも一人で背負おうとする必要は無い。
 リズ、お前の仕事を見ていて、もう十分わかったから」


「・・・・・・・・・・」


「お前を恨んだわけじゃないんだ・・・・・・。
 死んだはずだと思っていたお前を見つけたときは、確かに、お前のことなんか信じられないと思った。
 俺は、お前がいなくなった理由なんか何も知らなかったんだ。
 何が起こって、そしてお前がこんなところで何をしているのかも。
 お前が憎かったわけじゃない。・・・俺は、何もできなかった自分が憎かったんだ」


「やだ、スタリオ、あなたらしくもない女々しい顔しちゃってさ、何言ってるのか全然わからないわよ」


「茶化すふりしてはぐらかすのはもうよせ、リズ。
 お前は、仮面を被ってるときは口調が微妙に変わる。無意識なのかわざとやってるのかは知らないがな」
 

自然と唇は笑みの形を作って哂(わら)う。
何を嘘と呼ぶの。何を真実と証するの。
言葉はただ、言葉でしかない。
無慈悲で無機質な、単音の連なり。何の音色も奏でない。
悪酔いしやすい、安物の嗜好品。
それでも良いならば、この唇に乗せてあげよう。


あたしが、いつ、仮面を被ったって?
馬鹿なこと。
悟ったような言葉が不愉快だ。


過ぎ去った出来事を偲ばせる言葉が、棘を持って耳へと届いて反響する。


過ぎ去った出来事を思う 言葉  が ・・・ 。



「で、何が、言いたいの?」



ふつふつと、胸の中に嫌なわだかまりが淀む。
濯いでしまいたい。
そうね。こんなときは、舌を刺すような濃いお酒がいい。
琥珀色の魅惑を映すアルコール。


甘いお酒の味は、キスに似ている。


ああなんだ。
こんなものか。


後味が響いて、そしてすぐに消える。



「そうね。スタリオ、あなたがあたしを止めようとしてるのは、以前から薄々わかってはいたけど・・・
 言葉でそういうわりにはね、あなた、自分の姿を鏡で見てみたら?
 仮面ですって? そういうあなたは、獣の眼をしている。
 ・・・この、光の差さない地下街で、あたしと遭遇したときのあなたと、同じままの眼をしてるじゃない。
 何も変わってもなければ、何も諦めきれてないのよ。あなたは」


宵闇の色に似た鋭い瞳が、しばし、数度瞬きを繰り返した。


頭の中に沈殿した澱をかき回すような会話。さざなみのような揺らぎが胸の中に巻き起こる。苛立ちなのか不安なのか、後悔なのか。
形の無いざわめきに呑まれないように、気付けのクスリを喉に流す。
辛い辛い、蒸留酒。熱い刺激が胸を焼く。



『お前・・・こんなところで何を』



掻きまわされる、沈澱していた記憶の残滓。



『リズ、生きていたのか・・・そうかお前、あの事故で死んだように見せかけて・・・』

『ははっ。・・・・・・そうね、あなたとこんな形でまた会うなんて、全然思ってなかったわ。
 けっこう元気そうね、スタリオ。随分様子は変わったようだけど』



・・・ちっ。
自分の声と言葉さえも、脳はきっちりと記憶している。掘り返せば、容易く耳に再生される。
聞きたくなかった。
凍りつくような自分の声色。何かが欠けてしまった自分。
軽く頭を振って、もう一口、舌に絡みつく液体を喉に流す。濃い褐色の、ダーク・ラム。


けれども、一旦巻きかえった記憶の流れは、なかなか止まらない。
続けて聴こえてくる、あのときの会話の続き。過去から現れて、そっと耳元にささやき続ける。
くすくすくすと、ざわめきながら。



『貴様・・・・・・! やっぱり貴様が全部仕組んだのか!』



あの時の台詞で、おおよそ全てを悟ってしまった。
あたしは、自ら創った苦しみから逃れられる方法も、隠れる場所も、もうどこにも無いのだと。
真実がどうであれ、あたしが作った薬で引き起こしてしまった禍は、全てあたしの身に引き受ける罪科になっているのだと。
あたしに弁解の余地は無い。忌々しいものは全部焼き捨ててきてしまった。
自らの一瞬の激情が災禍さえ、あたしの責任だ。


そうして思いがけずこんなところ――正確にはここではないけど、似たような地下の一角――で、偶然にもスタリオと出会ったときには、これがあたしの末路だろうと思ったものだ。
憎しみに駆られた、獣の瞳。



 違うんだ。
 あたしは。
 誰かの苦しみを。
 治したかった。

 逃げたんじゃない。
 ただ。
 失ったものの代わりに、
 あたしができることを
 見つけたかったんだ。



そんなあたしの言葉が、どうして、この哀しい瞳へと届くだろう。
自らを護りたいわけじゃない。弁解なんか必要ない。
あたしが誰かの苦しみを癒せるならば、憎しみも全て引き受けよう。
もしそれしかできることがないのなら。


 
『あの麻薬を作ったのはお前だな』

『そうよ』




そう。それだけは間違いない。


あの薬を製剤したのは、確かに私・・・・。




『そうして、地下に隠れて、麻薬を売っていたのか』


『それは違う』





違う。それも、きっぱりと返答できる。




『何が違う! 貴様はここで、何をしていた!』




あのときの血走った眼を、あたしは決して忘れないだろう。
もしあのとき、スタリオがその場であたしを殺そうとしたら、あたしはどうしていただろう・・・。
時折、この時のことを思い出しては、そういうことを考える。
ほとんど捨てたような命だったけれども、あたしは決して、死にたくなかった。
あたしは死ぬわけにはいかない。あたしがやらなきゃいけないことがあるんだと。そう信じていたから。


『「アズラエル」を買いに来る馬鹿者を仕留めるために、あたしはここにいるの』






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