ぽたりと、首筋から流れた紅い雫が、腕へ肘へ、指先へと伝って落ちていく。

「いやだよぉ、死なないで・・・・・・」

ぴきん、ぴきん。何かが、砕けていく音がする。亀裂が入って、破片になっていく。

何千年前から存在するかわからない、遺跡の壁は。
無数の罅を持ちながらも、なおも朽ちることなく、月明かりを受けて静かに佇んでいる。
人の命を吸い込む、石の鱗を一面にびっしりと貼り付かせて。
生贄を待ち続けていたのだ。

「イザヨイ、落ち着いてよく聞いて、ね」

歪に波打った石の壁面に、体を半分近く吸い込まれて。血の気の無い灰色に染まった指先をあたしへと伸ばして。
あなたはあたしの名前を呼ぶ。
まだ心まで侵食されてないという証のように。あたしを呼ぶ。

「壁に掘られてある絵や模様は、全部、『楔』なんだ」

石の人魚。
灰色のウロコ。

じゃあ、あたしがこの体をここにつなぎ止める。
あなたが、砂になって消えてしまわないように。







子供の頃から、遺跡に遊びに行ってはいけないよと、大人達から何度も何度も聞かされていた。
大きな大きな石の魚が住んでいて、怪物に喰われてしまうんだよって。


『ああだめ、ここに入ってきてはいけないよ・・・・・』

石の祠の中から、とても悲しげな女の人の声が聞こえた。姿は見えない。けど、声だけ聞こえる。

『一面に転がってる灰色の岩は、どれも生きていて、人間の肉に吸い付いて食い殺してしまうんだよ。石の魚が跳ねる時の波が、海を揺らすから、どうしても凪が続いて漁が出来ずにいると、大人は子供をここに向かわせるらしい』

どくんどくんどくん
鼓動が脈打つような、気味の悪い音がする。これが、さざ波の音。
怪物の吐息が、海をかき混ぜている。







欠けた月が、だれかの忘れ物のように、そっと空に引っかかっている。
哀れみに染まった目が、あたしを眺めている。

「そうか、昔、そんなことが起こったんだね・・・・・」

あれから百年、二百年、どのくらい時間が過ぎたんだろう。
波が何度も何度も岩を舐めて、砂浜の地形がすっかり変わってしまうくらいに。

あなたと少し似ている雰囲気の男の子が、この石の祠にやってきたよ。
波が時々、紅く染まるのが気になって、何があったのか見に来たんだって。
月の引力が少し強すぎて、波が引っ張られてしまうからかなぁ。
あたしの体が、岩から剥がれそうになってしまって、少し肌が裂けてしまうんだ。痛い。石のウロコが、ぼろぼろと砕けて、崩れてしまう。

「あたしがここで生きている間は、海の波が止まってしまうことはないし、生きた石の魚が、人間を食べてしまわないように見張っているから。だから安心してね。紅い波を流して、怖がらせてしまってごめんなさい」

あたしの好きだった人に似ている男の子は、ただ悲しそうな顔をして、あたしのことをじっと見つめていた。灰色の石の中に、半分埋もれているあたしのことを。
生きた石のウロコを、灰色の岩を、自分自身の体の中に喰い込ませた。
岩の魚の怪物が人間を食い尽くすなら、あたしが逆に、この体の中に食い尽くしてやる。
どくんどくんどくん
さざなみを起こす、気味の悪い吐息。血と肉を吸い込んで波打つ鼓動。これを、あたしの体に引き受けるから。

「もしも、石の魚の怪物が現れたら、この刀で砕いてしまえば、怪物を殺せると聞いたのだけど。もし岩を砕けば、あなたは解放されて、人間の体に戻れるんじゃないか?」

あたしは笑ってみせて、首を横に振った。
そして、細かい灰色のウロコが沢山張り付いている自分の指先で、歪な石の壁面を撫でる。

「ここにね、あたしと一緒にここに入ってきた男の子が眠ってるの。石の中に吸い込まれて消えてしまった。食べられちゃったんだと思う。一生懸命、助け出そうとしたんだけど」

ずぶずぶと、足元の灰色の岩が崩れて、濡れた貝のような岩が体に貼り付いて、灰色の岩に埋もれていった。
石のウロコに覆われた手をずっと握っていたけれど、その手も崩れていってしまった。石の魚に食い尽くされるって、こういうことか。
灰色の岩に半分埋もれながら、最後に彼の唇が、「にげて」って囁いたのを、あたしは忘れない。

波が立たなくて凪が続いている。漁ができないと生活できない。
石の祠にお供え物をしてきなさい。
大人達はあたしにそう言った。食われてしまうのを知っていたんだろう。岩の怪物が人間を食うことで、吐き出す息や鼓動が波を震わせているってことも、わかっていて。子供のあたしに、行っておいでって。
一人で怖くて行けないなら、一緒についていってあげるよ。そう言って手を握ってくれた。
一緒だったら怖くないよ。
だからあたしも、ここにいるよ。
潮に体を削られて、いつか細かい砂の粒になって消えてしまうまで。ずっと、ここで息してるから。
ここから掘り起こしてくれたりしなくていい。助けてくれなくていいから。
誰も、小さな子供がこんな怖いところに迷わないように気をつけてあげてね。









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