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メイド本原稿


「瓶の中に妖精がいる……」
「妖精ではありません、メイドです」
「なぜメイドが瓶の中にいるのですか」
「メイドというのは、屋敷の主、あるいは屋敷を訪れる人の目に触れてはならない存在、そっと現れてはそっと部屋を綺麗に整える、姿を見せない妖精でなくてはならないのです」
「やっぱり妖精じゃないですか」
「ともかく、その瓶の中のメイドが、貴女を今日から一流のメイドに躾けてくださいます。しっかりとメイドとしての品格を備えるために、学び、日々の業務に従事してくださいませ」



・お屋敷に三人の新しいメイドが雇われた。
・それぞれ、仕事がうまく覚えられずに悩んでいるようだ。
・そこへ、魔法使いが現れた。
・メイドとしてきちんと働きたいのなら、その願い、叶えてあげましょう。
・このお屋敷には、三人のハウス・キーパーがいるの。
・そして見せたのは、小さなガラスの瓶の中ですやすや眠っている、小さなメイドの少女。
・瓶は三つある。


・このお屋敷にメイドとして雇われたのなら、貴女達は、この三人のハウス・キーパーに認められなくてはいけません。
・さぁ、メイドとしての仕事を覚えなくては。でも、どうすればいいの?

・まず一人目の貴女。
 貴女は、メイドの仕事がわかってないからいけないのよ。
 一度、人の目に見つかってはならない妖精になりなさい。
 そうすれば、メイドの仕事がいかに慎ましやかなものか見えてくるから。

・まず、二人目の貴女。
 貴女は、メイドとは淑女でなくてはならないということがわかってないようね。
 一度、メイドとは間逆の立場、すなわち、男性の執事になりなさい。
 そうすれば、メイドの立ち振る舞いの美しさが見えてくるわ。

・そして三人目の貴女。
 メイドとしての心の優しさが欠けているようね。
 一度、飼猫になりなさい。
 メイドとはすなわち、ご主人に飼いならされてる召使なのだから。






 暖炉の傍に置いていた灰壺を、白い猫がじゃれついて転がしてしまっていた。
「あああああ、やっと暖炉のお掃除、終わったところだったのに」
 カーペットに、小麦粉をまいたような白い灰がもうもうと舞い上がっている。暖炉どころじゃない。カーペットの掃除も窓拭きも、ランプ磨きも、一からやりなおしだ。ああ、シーツにまで灰が飛んでしまっている。ベッドメイキングも洗濯もだ。
 今日はお昼ご飯は食べる時間はとてもなさそうだ。泣きそうになりながら、モップを杖のように床に突いて、がくりと、膝を落としてうずくまってしまった。
 クラテーノ邸にメイドとして雇われて、早三ヶ月が過ぎた。
 憧れの紺のドレスのお仕着せに、白いエプロンとレースのついたメイドキャップ。意気揚々と張り切って、ようやくメイドとしてお勤めを開始したというのに、どうしてもお仕事がうまくいかない。
「うーん、お屋敷のお仕事なんて、そのうち慣れると思うのだけど、そんなに落ち込んでたらよくないわねぇ」
 お洗濯物を絞りながら、スカラリーメイドのナンリが苦笑していた。
 お掃除がうまくできないならということで、私は一旦洗い場の部署に回されてきたのだけど、どうしても洗い物も上手くいかない。一日中水仕事をするのは相当な重労働だろうに、てきぱきと手際よく、真っ白なシーツが泡の中で揉まれていく。私がやると、泡は桶から散らばるばかりで周りが水浸しになってしまうし、シーツはしわしわになってしまうしで、同じ仕事をしてどうしてこうも差が出てしまうのかがわからない。何より不思議なのは、ナンリの手がいつも貴婦人のようにすべすべで綺麗な指をしていることだ。噂で聞いた話では、通常、洗い場で働くスカラリーメイドというのは、半年も働けば、手荒れでがさがさの手になって、まるで老婆の手みたいになってしまうんだって。
「心を込めてお仕事していれば、身も心も美しくなるものよ。ミアン。客間に顔を出すパーラーメイドでなかったとしても、メイドというのは、お屋敷を美しく整える妖精なのだから、常に美しい立ち振る舞いと身だしなみに気をつけなくては」
 そうして、洗い物の皺を伸ばしているナンリの手からは、泡の匂いと爽やかなレモンの香りがした。
「そうそう、落ち込んでてもしょうがないわよ。なんだったらキッチンにおいでよ。あたしが仕事教えるわよ」
 ひょっこりと顔を覗かせたのは、キッチンメイドのヴェネアだ。手には、材料からくすねたのかも、オレンジを手に持ってかじっている。
「あらまぁ。それもいいかもしれないけど、ヴェネアにお仕事を習ったら、つまみ食いばかり覚えてしまうかもしれないわよ」
「それがキッチンメイドの特権じゃないの、普通じゃ食べられないような高級な食材ばっかりなんだもの。上等なキジバトの肉の切り落とし部分とか、飾り切りしたお野菜の、盛り付けには載せない端っことか、ちょっと色が焦げすぎた燻製とか。あと、出来立てのアイスクリームを一口味見したりとかね!」
「ここに来たばかりの頃は、黒焦げのニシンとか、生焼けのローストビーフとか、濁ったようなシチューとか、とても食べられたものじゃないと周囲の使用人から不満たらたら言われるようなものばかり作っていたのにね、ヴェネアったら」
「そりゃあねぇ、あのメイド長にしごかれたら、仕事できるようにならない限りはもう命が無いっていうか」
「伝説のハウスキーパーだものねぇ、あのお方は」
 オレンジを掌で転がして、腕を組みながらヴェネアが苦笑している。
 メイド長? ハウスキーパー?
 そんな人、まだ私、お会いした覚えがないのだけど。
「あっ、これ、ミアンに話してよかったんだっけ?」
「さぁ。まだかもしれないですわね。旦那様がどう思われるかにもよりますけど。まぁ、ミアンがもし困っているのなら、旦那様がメイド長を呼んでくださるのではなくて?」
 と、きょとんとしている私の目の前で、特にはばかる様子でもなく、ナンリとヴェネアが話している。今の言葉の内容だと、隠し事のような話だが、別に隠そうともしてないようにも聞こえた。
「まーまー。お仕事できなかったら、あたし達がなんでも教えるからさっ、とりあえず、お掃除が苦手だって言うならキッチンに来て。美味しいジャムもあるから」
「だからヴェネア、つまみ食いを教えるのはおやめなさいよ……」
「硬いこと言わないでよ、ナンリにも今度、手荒れに効く柑橘類の皮、いっぱい持ってきてあげるから」
「ご心配なく。きちんとお仕事をしていれば、そのくらい、旦那様がご褒美に持ってきてくださいますもの」
「あーいいなー。じゃあ、あたしもお仕事こなしたらご褒美におやつのビスケットお願いしよう」
「先にお仕事をしなさい、お仕事を」
 ナンリとヴェネアと見ていると、メイドの仕事って楽しそうだなぁって気がしてくる。こんなに悪戦苦闘しているのは、私だけかしら?
 なんだか急に、自分の紺のドレスとエプロンが、不釣合いで大きすぎる、ぶかぶかの衣装のように思われてきた。ナンリもヴェネアも、きちんとお仕着せを自分に合わせて着こなしていて、とても美人なのにな。
 ナンリは黒髪がとても綺麗だし、まるで貴族のお嬢様のように肌が真っ白で品があるし。ヴェネアは、身長もあって栗色の波打つ髪はきちんと結っていて、活発な彼女の性格を示すかのような、血色のいい頬と、化粧をしれなくても赤く鮮やかな唇。本人がパーラーメイドになりたがってたと言うだけあって、女優のように華やかな容姿をしている。
 じゃあ、私は? いやいや、メイドに必要なのは容姿じゃないはず。外見で選ばれるのは、客間でお客様をもてなすパーラーメイドと、女主人に付き従うレディースメイド。別に目立たなくてもかまわないのよ。
 私の傍らで、白い猫が、ミアア、と鳴いていた。
 ええい、小憎らしい。あなたが暖炉の灰をひっくり返したりしなければ。
 モップを片付けて、台所へと向かった。
 うう、しょんぼり。







 キッチンの準備も、清掃も、ベッドメイキングも、洗い物も。
「私なんて、所詮ただの田舎ものなのかしら……」
「元気だしなよ。笑顔でいるだけで、周りが元気になれるから」
 若い執事が、私に温かいココアを出してくれた。私とほとんど同じくらいの年頃かもしれない。
 優しさに涙が出そうだ。
 ああ、ちゃんとした仕事ができるようになりたい。私はメイドになりたい。
 このままじゃお屋敷を追い出されてしまうのではないか。不安でたまらない。
「仕方ないわねぇ、私がメイドとしての仕事の仕方を教えてあげましょうか」
 どこからか声がした。
 ガラス瓶が並ぶ戸棚。中には、作り置きの食料が並んでいる。
 シュガーポッド、クラッカー、刻んだハーブ、ジャム、ドライフルーツ、砕いたナッツ。
 どこから聞こえたの、今の声は。
 瓶が並ぶ戸棚の隙間に目を凝らすと。
 その中の瓶の一つの中に、小さなメイドが座っていた。
「瓶の中に妖精がいる……」
「妖精ではありません。メイドです」
「なぜメイドが瓶の中にいるのですか」
「メイドというのは、屋敷の主、あるいは屋敷を訪れる人の目に触れてはならない存在、そっと現れてはそっと部屋を綺麗に整える、姿を見せない妖精でなくてはならないのです」
「やっぱり妖精じゃないですか」
「ともかく、その瓶の中のメイドが、貴女を今日から一流のメイドに躾けてくださいます。しっかりとメイドとしての品格を備えるために、学び、日々の業務に従事してくださいませ」
 気がつくと、私は立ち並ぶ瓶詰めのキャンディの合間に佇んでいた。
 ええええええええええええ。
 私は妖精サイズのメイドになってしまっているではないか。
 砂糖菓子にクラッカー。スコーン。銀のスプーンにティーカップ。
 こんなサイズじゃ、お給仕もろくにできないじゃないの。
 ただでさえ、お仕事が上手にできずに途方にくれていたというのに。
 そこへ。
 私に温かいココアを出してくれた、あの若い執事が、目を丸く見開いて私のことをじっと見つめていた。
 ひぃ、見つかってしまった。こんな姿を。
「そうか……ハウスキーパーに目をつけられてしまったんだね」
「何々、ハウスキーパーって」
「伝説のメイド長と言われている」
 何、伝説って。
「ええと、未熟なメイドを鍛えるために、魔法を使って厳しい試練を与えるんだって」
「ええええええ」
「元に戻るには、ハウスキーパーに認められる一人前のメイドになるしかない。一緒に頑張ろう。僕も助けてあげるから」
 うっうっ。なんかもう、泣きそうなんだけど。めそり。
 小さくなると、お部屋の片隅の細かいところにも目が向かうようになった。
 あら。こんなところにも埃が。
 こんな向きでお皿を置いたら、綺麗に見えないと思うの。
 やだ。モップが片付けられてないじゃない。柄が壁に立掛けられていて、外観が台無し。
 こういう細かいところにも気を配り目を配って、美しいお屋敷の空間を作らないといけないのだわ。



 小瓶に入るサイズのメイドになってしまってから、早三日。
 どうにか、銀食器の並んだ棚に箒がけをするお仕事をマスターしました。
「ありがとー、こっちもはたきがけ終わったよ、ミアン」
「いえいえいえ、あっ、ちょっと右から三番目のソーサーが曇っていたのが気になるわ。あとで磨き布持ってきてくれたら私拭いておきますね」
「ああ、教えてくれてありがとう。僕やっておくよ」
「いえいえ私が」
「いやいや僕が」
 袖を折り曲げた白いシャツと、サスペンダーが初々しい感じの見習い執事の少年。名前をシエルくんと言うそうな。
「やぁ、最近お仕事頑張ってるねーシエル、どれか手伝おうかー?」
「ワインセラーのチェックと帳簿の管理は終わった? 俺やっておこうか」
 と、そこへ現れたのは、同じく執事衣装の男の子が二人。
「あっ、なんだかちっちゃいメイドがいる」
「え、まじで。それGキブリの見間違いじゃなくて」
「いやいや、そこ、シエルの胸の高さのところ」
 おわー見つかっちゃった。てかGじゃないわよ失礼な! せめて白ネズミくらいにしといてほしい。ってそんなに大差ないか。
 そういえば、今のサイズの私って他の使用人達に見つかってしまって大丈夫なんだろうか。あのガラス瓶のメイド長は、『メイドとは人の目に姿を見せない妖精でなくては』なんてこと言ってたような気がするけど。
「あはは、てことは、あのちっちゃいメイド長に目ぇつけられちゃったんだね」
「笑い事じゃないだろ。少なくとも当人にとっては」
「あ、名乗るのが遅れちゃったね。こっちの無愛想なのが、執事のレオン。僕はヘリオスだよ」
「どうして人から先に紹介するんだよあんたは。普通自分から先に名乗るでしょ」
 と、腹立たしげにぶつぶつ言い返している彼は、短い黒髪を整髪料で丁寧に整えていて、身なりも襟元からつま先、胸ポケットのハンカチーフの折り方に至るまできっちりとした印象で、見るからに几帳面そうな感じだった。少し険のある不機嫌そうな目つきさえなければ、さぞかし気品のある執事姿だろうと思う。
 その隣に並んでいる、少しくせっ毛の髪をした彼は、レオンとは対照的に、始終にこにこと柔和な笑みを浮かべている。首もとには、タイの代わりの白いスカーフ。銀縁眼鏡をかけていて、白い手袋をつけていた。そして、金色のカフスボタンが光る灰色の布地の燕尾服は、正直言うと、このお屋敷で見かけた男性使用人の中では一番良い仕立てをしていて、彼が一番上位の使用人に当たるんだろうと見てとれた。その割には、へらへらと隙だらけの様子に見えるけど、まぁそれはいいとして。
「伝説のハウスキーパーは、とっても世話焼きでおせっかいだからねー。メイドさんや執事くんが仕事に困ってると、手を貸して助けてあげたがるんだってさ。まぁ、適当に頑張ってみてね、ミアンちゃん♪」
「ええええええ、困ってると助けてあげたくなるって、そんな、私、このサイズになっちゃって、逆にとっても困ってるんですけど! ほら、箒もまともに持てないから、わざわざシエルが、私サイズに藁と鳥の羽を切って、ミニサイズ箒作ってくれたんですよ!」
「あら本当だね可愛いね。じゃあ、君サイズでもお給仕ができるように、ミニサイズのティーポッド用意してあげたらいいかもね。レオン、ちょっとドールハウス職人に頼んで一セット受注してあげたらいいんじゃないかな」
 ヘリオスはへらへらと笑いながら、部屋の中に入ってきた白猫を抱え上げて撫でている。あああ、カーペットに毛が散らばらないか心配。
「伝説のハウスキーパーと言えばね、こんなお話があるんだよね」
「へ?」
 ふと、思い出したかのように、ヘリオスは懐から手帳のようなものを取り出して、ぱらぱらとめくる。
「ここのお屋敷、クラテーノ邸の当主はね、大昔の魔法使いの血筋を引いていて、その時代から仕える使用人もいまだにこっそり隠れて住み着いているようだよ。確かそんな話だったね。ああ、あったこんなメモがあったよ」
 
・さぁ、メイドとしての仕事を覚えなくては。でも、どうすればいいの?
 このお屋敷にメイドとして雇われたのなら、貴女達は、この三人のハウス・キーパーに認められなくてはいけません。

・まず一人目の貴女。
 貴女は、メイドの仕事がわかってないからいけないのよ。
 一度、人の目に見つかってはならない妖精になりなさい。
 そうすれば、メイドの仕事がいかに慎ましやかなものか見えてくるから。

・二人目の貴女。
 貴女は、メイドとは淑女でなくてはならないということがわかってないようね。
 一度、メイドとは間逆の立場、すなわち、男性の執事になりなさい。
 そうすれば、メイドの立ち振る舞いの美しさが見えてくるわ。

・そして三人目の貴女。
 メイドとしての心の優しさが欠けているようね。
 一度、飼猫になりなさい。
 メイドとはすなわち、ご主人に飼いならされてる召使なのだから。

「・・・・・これは何なのでしょう」
「だから、仕事を覚えられないメイドさんが、メイド長に魔法をかけられたというお話」
「うん。確かに、これはよくある話だ。これに困らされているメイドは今までにも、一人や二人や三人だけの話じゃなかったから」
 にこにこと微笑むヘリオスの横で、なぜかレオンまで、眉間を指で押さえながら何か考え込んでいる。
 えええええ、よくある話なの、これって。
「君の場合は、妖精になりなさいって言われたんだっけ。うん、大丈夫大丈夫、見た目はばっちり。可愛らしい妖精だよー。ぷりてぃ」
「妖精サイズになってなおかつ、仕事をしっかりこなせるようにならないと、元のサイズに戻してもらえないということですかね」
「大丈夫、僕が手伝うよ、協力するよ、僕もいろいろと勉強中の立場だし!」
 勢い込んでそう言ってくれるのは、執事見習いのシエル。何か共感かあるいは同情してくれているのか、落ち込んでしまっている私に対して一生懸命親身になってくれている。うう、嬉しいなぁ。
「それにね、メイドの仕事だったら、ナンリとヴェネアに聞くのが一番いいと思うよ。それなりに経験積んでるからさ」
 ヘリオスが名前を出すのが早いか、ひょこりと、即座に姿を見せた白エプロンが。
「呼びました?」
「呼ばれた気がしました」
 優雅に翻すお仕着せの白エプロンが、ふわりと咲く蓮の花のように広がる。
「はやっ。君達来るのが相当早くない?」
「そりゃもう」
「私達、このお屋敷での妖精ですから」
「お屋敷の壁です」
「あはは、壁に耳ありとやらなんとやら。さすが」
 拍手しかねないほどの賞賛ぶりだけど。
「大丈夫ですよ、お掃除は細かいところの埃をきちんと見落とさないようになったら一人前ですから。洗い物はそっと優しく赤ん坊に触れるように手揉みで」
「お料理はねー。計量スプーンのサイズを間違えないようになれば、一応なんとかなるよ? あたしのときなんて大変だったから、それに比べたらミアン、お料理くらいできるできる」
 なんか自信たっぷりに話すこの二人。もしかしなくても。
「まぁ、経験者ですものね」
「そのサイズでも計量カップは持てるわよー、実際あたしだって頑張ったんだから、心配ないってば」
 やっぱり・・・・・・。
「一緒にお屋敷で働いている仲間だもん。助けてあげないとね」
「ナンリのときは、どうやったら元に戻ったの」
 つやつやの陶器のカップがいくつも並んだ棚の中で、ソーサーの一つに腰かけた。自分が角砂糖になったような気分がした。ティーカップに添えて置かれる角砂糖の気持ちを体験できるなんて、そうそう無いことだと思う。
「実はね、コツを掴めば簡単なことなんですよ」
「なになに」
「自分が苦手だと思うことを克服できればいいのです」
「え」
 ぴんと立てた人差し指を、頬の横で左右に振りながら、ナンリがおっとりと微笑んでいる。
 いやいや、そんな得意げに言われましても。
 お掃除にお洗濯、食器磨きにベッドメイキング、厨房の下準備のお手伝い、ここに来てからどれも上手にできなくて、おかげであちこちの部署を回ることになって、とうとう今の現状という今の私だ。苦手と言われれば恐らくどれもこれも苦手で、全部まともにこなすようになるにはかなりの労力がかかると思う。簡単にできることではないのは確かだ。
「苦手なことかぁ、そんなこと言われても困っちゃうよねー。僕だってセロリ食べられないし」
「誰もあんたには聞いてないよ」
「そんなこと言って、レオンだって実はコーヒーブラックで飲めないし、ミント味のもの嫌いでしょ」
「何で俺の話になるんだよ今は嗜好の話じゃないだろ」
「そーそー、それからちゃんとセロリも食べてよね。あたしがせっかく準備してるんだから」
 なんだか話がそれてるんだけど、まぁそれは置いといて。
「うう、とにかく頑張ってみる。頑張ります」
「んー、問題はそういうとこだと思うんだけどなぁ」
 首元の白いスカーフを指先で整えて、ヘリオスが首を傾げていた。
「無理して頑張ろうとしすぎてるから、余計な力が入っちゃうんじゃないのかな。メイドさんてのは、お屋敷を居心地良く整えてくれるのがお仕事なんだけど、なんでもかんでも完璧にこなすカラクリ人形にはなれないものなんだよね。ナンリやヴェネアやレオンを見てたら、もうちょっと楽な気持ちで働いてていいんだって思えると思うよ」
「なんでそこで私までお名前を出すのですか、ちょっと心外ですよ。私はヴェネアより真面目に毎日働いておりますよ」
「俺だって相当きちんと仕事してるんだけども」
「まーまーそう言わないでさー」
「完璧な人間なんて世の中にはいないってことよね。あたしもそれは普段よく思うし」
「いやヴェネアが言わないでくださいよ」
 それにしてもここの使用人さん達はみんな仲が良くてほんと。
「ああ、そうだ、一つ思い出したことがあるよ」
 と、ずっと控えめにそっとお部屋の片隅で様子を見ながら佇んでいたシエルが、ふと口を開いて私の方へ向き直った。
「旦那様が言っていたのだけれどね、旦那様は、使用人達が笑顔で働いてるのが大好きだから、だから、お仕事が辛いと思わないように働いててほしいなって」
 へぇぇ。そんなこと言ってくれるなんて、素敵な旦那様だわ。
「さてと、言いにくいことなのだけど、そろそろ持ち場に戻らないと、各々仕事が片付かないと思うよ。仕事に戻ろうか」
 軽く咳払いをしながら、レオンが懐から懐中時計を取り出し、盤面にちらちらと視線を向けていた。
 確かにそうだわ。ここでずっと立ち話をしているわけにはいかない。
「じゃあ僕は食器磨き片付けておくね、ミアンは、ヴェネアと一緒に行って、棚の整理を教えてもらってね」 
「はーいじゃあ、あたし、ミアン連れて行くわね」
「あ、お願いします」
「やだもう、同じメイドの立場なんだし、そんなに真面目な口調じゃなくていいわよミアン、もっと打ち解けなさいって」
「ええと、じゃあお言葉に甘えて、一つだけヴェネアにお願いしたいことがあるの。あ、片付けが終わってからでいいから」
「お、なになに。もちろん聞くわよ」
 苦手なことはいろいろと、限りなく出てくるかもしれない。だけど、もしここで、皆と一緒に働かせてもらえるのなら。
 自分にできることから見つけていこう。




 ガラス瓶の中にいた、小さなメイドは私にこう言った。メイドとは、そっと現れてそっとお部屋を整える妖精だって。
 私はもしかしたら、自分のことばかりで頭がいっぱいになりすぎていたかもしれない。
「銀食器の片付け終わったよー、ミアンは大丈夫? お砂糖の瓶が持ち上がらなくて困ったりしてない?」
 折り曲げたシャツの袖をぱたぱたと伸ばしながら、シエルが厨房の戸棚を見にやってきた。
「ありがとー、ほとんどヴェネアがやってくれたんだけど、終わったよ」
「ああよかった、また仕事が終わらなくて落ち込んでないかと、心配で」
「それより見て見て、ココアの入れ方を覚えたよっ」
 と、私がバターの瓶を片付けながら大きな声を上げると、ようやくシエルは、テーブルの上に暖かな湯気をたてているカップが置かれているのに気づいてくれたようだ。
「え、これ、わざわざ入れてくれたの、僕の休憩用に?」
「こないだ、落ち込んでるときにココア出してくれたのが、嬉しかったから。ちょっと休んでいってね。シエルも、お疲れさま」
 他のメイドや執事達に助けてもらって凄いなぁと感じたのは、皆、自分の持ち場所だけでなく、他の人の仕事も手伝おうとしていること。私は自分の仕事がうまくできないことに頭がいっぱいで、とてもそんな余裕がなかった。
「私も、皆みたいな仲間思いのメイドや執事になりたいなぁ……」
「うーん、執事になるのは大変だと思うけど、メイドならすぐなれるよミアンなら」
「あ、うん、そういう意味じゃなくて、皆のこと凄いなって思って」
「でもやっぱり、自分の仕事を認めてもらえたら、嬉しいよね。僕も労ってもらえるととても嬉しいし。今までそういえば、お疲れさまって言われたことなかったかも」
「じゃあ、私達ちょっと似てるのかもね、一緒に頑張ろうね」
 甘い香りの湯気が漂っていて、この香りをかいでいると幸せな気分になれそう。厨房のお仕事って楽しいなぁ。ヴェネアがつまみ食いしたくなっちゃうのも無理ないかも。
「もう少しミルク足したほうが美味しいかな」
「あまり使いすぎると怒られない?」
「ヴェネアはいつも好きに食材使ってるみたいだし、ちょっとくらい大丈夫と思うよ」
 なんて冗談めかしてみて、クリームの入った瓶をもう一度取りに行こうとして・・・・・・案外すっと手が届いて、あれ? こんなに戸棚近かったっけって思ったり。
「あ、戻った・・・・・・」
「ああああ、びっくりした、魔法が解けたみたいだねミアン、よかった」
 きょとんとして目を丸くする私に、シエルが満面の笑みを向けてくれた。小さくなるときも突然だったけど、元に戻るときも突然だった。 一瞬、戸棚のクラッカーの入ったガラス瓶の陰に、小さい人形くらいの大きさの、紺色のドレスと白いエプロンが翻るのが目に入ったような気がした。
「あれ? シエルがなかなか戻ってこないと思ったら、休憩タイム? ずるいなぁ、僕らも呼んでよー、って、あれ? ミアンちゃん」
「おおう? また新人メイドが増えたのかと思ったら、ミアン、元に戻ってるみたいじゃない」  
 急に見計らったかのタイミングで、ヘリオスとレオンも厨房に姿を現す。
 ついでに、話し声を聞きつけたようで、ナンリとヴェネアも一緒に集まってきた。
「あらあ、じゃあようやく、伝説のハウスキーパーに認めてもらえたのですね、おめでとう」
「あー、そのうちね、小さいサイズのほうがつまみ食いしやすかったなって思うときもあるわよ」
 なんて言っているヴェネアのつま先を、ナンリがそっと踏みつけていたのだけど、それは見なかったことにしておこう。
「じゃあ次はお給仕を覚えなきゃね。旦那様はお茶の時間がお好きだから、ココア入れて差し上げたらきっと喜びますわよ」
「わああ、普通お給仕って紅茶淹れるものだと思ってたけど、いいのかなココアで……」
 嬉しさ半分照れ恥ずかしさ半分で、あわあわとうろたえながら、ふと、ようやく疑問に思ったことが一つ。
「そういえば、私、お屋敷のご主人様にまだお会いしたことがないわ。いつ頃、お屋敷にお戻りになるのかしら」
「何を言っているんだよミアン、ご主人は出張しているわけではないよ」
「え」
「そうだよ、ほら、目の前にいるじゃないか」
 そう言って、にこにこと手を振っているのは・・・・・白いスカーフを首につけた、執事姿のヘリオス・・・・・。
 ん? んんんん?
「あっれー、おかしいな、僕のフルネーム、名乗ってなかったっけ?」
「名乗ってないですよ」
「名乗ってないでしょうね」
「絶対名乗ってないですよね?」
 周りのメイドと執事が口々にぼやいて、冷めた目をしてヘリオスを見ている。
「あはは。じゃあ改めて。僕はヘリオス=ヴォル=オルシアン=クラテーノ。れっきとした、クラテーノ邸の八代目現当主であり、君を含めた、メイド及び執事達の雇用主だよー。いつもお屋敷を綺麗に掃除してくれてありがとうね」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待ってください! なんで、なんだって、お屋敷の主が、執事の格好してたり、さも当然のように執事やメイドと一緒に雑用の仕事してたりするんですか!」
「それはねぇ、とても簡単な答えだよミアン。僕はね、執事やメイドが大好きなんだ♪」
 私がもし、虚弱な貴族の娘であったなら、眩暈を起こしてこの場で倒れていたかもしれない。まるで魔法の呪文のように長いフルネームの響きに、頭がくらくらした。
「だからって、お屋敷の当主が、雇用人と混ざって仕事しながら生活してるなんて、聞いたことありませんよ・・・・・・」
「だから言っただろう、うちのお屋敷のご主人は変わり者だって」
「言われてませんよ、そんなこと」
「さーて、お仕事はこの辺で、せっかく皆ここにそろってることだから、お茶の時間にしよっかあ」
 上機嫌の様子のヘリオス……いいえ、八代目当主クラテーノ卿は、両手の白い手袋をはずしてテーブルの片隅に置くと、パチンと軽快な音を立てて指を鳴らした。
 いつのまに現れたのか、レースのテーブルクロスがかかった卓上には、銀食器の並ぶティーセットと、宝石のように輝くタルトやスコーン、砂糖菓子やジャムが並んでいた。
 ええ?
 えええええええ?
 思わず目を疑った。
「ふう、さすが妖精は仕事が早いねぇ」
「え……、まさか本物の魔法使い」
「いやいや、お茶の用意はメイドと執事のお仕事だよ。ねえ、ヴェネア」
「ええ、美味しいお茶のお菓子をご用意しますよ」
 ヴェネアが、あたかも名女優のようにひらりと身を翻して一礼し、その一瞬で私の方へ目配せしていた。なんとも慣れた感じの素敵なウインクだった。
「……頑張って私も、妖精になります」
 もう、呆気にとられるしかできないけど、ヴェネアにならって私も、エプロンの両裾を指先でつまんで、膝を落として一礼した。
「ところで・・・・・・」
 そっと、小声で囁く声が耳に届いた。シエルが、白猫を抱きかかえながら、クラテーノ卿の傍に控えて、苦笑いを浮かべている。
「こちらの魔法はいつ解けるのでしょうね」
「あはは、もう君の場合、そのままでいいんじゃない? 似合ってるよ」
 腕の中の猫が、ミアアと鳴いて尻尾を揺らしていた。


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