窓から月明りが差し込んでいる。
旅の途中で立ち寄った宿で過ごしている夜のことだ。
普段なら、歩き疲れた心地良い疲労感と、目的地へ進む期待とを抱えながら、、すんなりと夢の中へと落ちてぐっすりと休んでいるところなのだけど。

「んんん〜〜〜〜〜・・・・」

何度目になるかわからない寝返りを打って、枕に顔を押し付けてうめいた。
清潔な麻布の枕は、良い匂いがする。頬を擦りつけながら、寝ようという一応の努力をする。
開けたままにしていた窓から、夜風が吹き込んで、カーテンが軽く揺らめいていた。


「ん〜〜〜〜〜〜んん〜〜〜〜」

瞼を閉じていても、外の月明りばかり気になって、ますます頭がはっきりと冴えてくるばかり。
ごろりと仰向けになって目を開けた。
無理だわ。眠れそうになんてない。

「やっぱり無理か。目が覚めちゃった」

一人でそう呟いて、がばりと勢いよく起き上がった。
お宿はとても居心地のいいお部屋だった。ベットは柔らかいし、壁の片隅には干したハーブが吊るされている。
あたしは意を決して、弾みをつけてベットから飛び降りると、素早く髪を束ねて、服を着替えてからマントを羽織った。
窓の外を眺めると、淡い藍色の月夜の景色の中に、影絵みたいに黒く切り取られている森が見える。

「やっぱり気になってしょうがないもん、行くしかないよね」

一人で旅をしてると、いつの間にか独り言が増えてしまうものかなぁ。
宿の出入り口から出ようかどうしようか少し迷ったけど、荷物を持って、窓から外へ飛び降りた。
ほんの子供の背丈くらいの高さだから、この方が手っ取り早い。宿のご主人起こしちゃっても悪いし。
宿代は先払いだから別にいいよね。夜の内に出立しますって一言書置き添えておけばいいか。
しっとりと夜露に濡れた空気が肌に触れる。

月明りを吸い込んで咲く花があるらしいよ。
宿で、そんな話を聞いてしまった。
次に行きたい街は一応考えていて、もうすぐ賑やかなお祭りがあるらしいから、それには間に合うように歩いて、ぜひ見にいきたいつもりだった。
だけど、ここの森にしか咲いてない花なんだって。月の光と同じ色をして、とても綺麗なんだって。
頭の中に、話に聞いた月の光の花が想像で思い描かれて、夜の明かりの中で咲いている。
一度思い浮かんでしまうと、その不思議な花をどうしても一度見て見たいという願いが、心の中で膨らんで収まらなくなってしまった。
見てみたい。不思議で綺麗なものに出会ってみたい。もしチャンスを逃してしまったら、二度と会えないかもしれない。

月の光の、花。
森の中に咲いてる。
月光を吸い込んで、とても綺麗に輝くんだってさ。

ちらちらと、脳裏の片隅に、昼間に聞いたそんな噂話が繰り返し響く。
そして、頭の中で想像する、夜の森に咲く花の光景も、ずっとあたしの心から離れない。
まだ見たことがないものが、見たい。

あたしは、深く呼吸をすると、頭の上に広がる夜空を見上げた。
月が出ている。淡く霞んだ光が零れている。
今日はなんだか無性に、素敵なものと出会えそうな予感がする。
夜の散歩もきっと気持ちが良いよね。








入り込んでいくと、思った以上に森の中は薄暗かった。
一歩一歩進むたびに、草や小枝を踏みつけて、カサカサと音を立てる。
目を凝らしながら歩いているけど、特に花らしきものはまだ見つからない。

「ないなぁ・・・・・・。きっと咲いてるだろうと思ったのになぁ・・・・・ふぇぇ」

手近な木に手をつく。ざらざらした木の皮の手触りがした。
立ち止まって膝をさすって、ため息をついた。木の根元には、夜露の粒を実らせた草がある。でも、花じゃない。
暗闇に塗り込められた、木の枝と枝の隙間にも目を凝らしてみる。でも、月の光の色は見えない。
何の音もしない、静かな真夜中の森の中だ。
絶対見つかると思った変な直感があったんだけど、そううまくはいかないものかな。
落胆してしょんぼりと、肩の力が抜ける。
一度改めて周囲をよくよく見回してみた。
背の高い木々の木の葉に、月明りが遮られてしまっている。
森を歩くのは慣れてるつもりだったけど、あまり暗いと危険だ。自分が歩く方向も進む方向も見失ってしまう。
仕方ない。もう少し明るい場所まで一度引き返そうか。
そう思って、進む向きを変えようかとしたときだ。

ざわり、と。

嫌な空気を背中に感じた。
しっとりと清々しい夜露を含んだ空気とはまた違う。森の木々が吐き出す、篭った植物の匂いとも違う。
これは、獣の匂いだ。
背筋が凍って肌が粟立つ。
何か、近くに、いる。

息を殺して、できるだけ身動きしないように、視線だけを動かして周囲を見回した。
ウゥ・・・・ ヴゥ・・・・ゥ・・・・
獣が、唸る声。耳をよく済ますと、静まり返った夜の空気の中に混じっている。

ぐっと歯を噛みしめる。
落ち着いて。落ち着いて。唸り声が聞こえるからといって、必ずしも近くにいるとは限らない。
危険なものとも限らない。だから、ここで慌てちゃダメ。

悪寒に震えそうになりながら、息を呑んで、よく目を凝らす。
漆黒に塗りつぶされた夜の中に。
光るものが見えた。二つ並んで、小さな粒のように、点々と。
ちょうどその時、風が吹いてきて、高く茂った木々が揺れて、わずかに月明りが零れてきた。
その月明りの中で垣間見えたものは。
銀色の、毛皮。
それは、遠目からただ眺めるだけなら、一瞬目を奪われるほど美しいものかもしれない。
流れるような銀の毛並みに、地面に立つ四本の足、尖った耳、白い牙。
だけどその獣の眼は、あたしの方へと焦点を定められていた。

考えている暇は無かった。
身を翻して全力で駆け出した。
それ以外にどうすればいいのかわからない。
ねぇ、もしミルサートさんだったら。あの人だったら、狼くらい平気かもしれない、余裕で交わして、剣か魔法で退治しちゃうのかな。
森で狼に出会わないようにする工夫なら、お父さんから教えてもらった。でも、遭遇しちゃったら、これどうやって逃げればいいのかな!

背中を向けたあたしに向かって、狼が轟くように吼えた。
思わず悲鳴を上げるけども、あたしの声さえ狼の唸り声にかき消される。唸り声は何重にも重なって響いてくる。それは暗闇に隠れていた狼が、一頭だけじゃなかったことを語っている。
木の枝に足やマントが引っかかってよろける。咄嗟に、足元に転がっていた枯れ枝を後ろに投げつけた。
先頭を駆けていた狼にぶつかる。いやぶつかったのかな。そんなの確かめてる余裕も無い。
息が止まるような思いで走りながら、涙がこぼれる。
やだやだやだ、獣の足とあたしの走る速さで、敵うはずも無い!

茂った木の枝の間を必死にすり抜けると、ほんの少し視界が開けた。
森から抜け出したような一瞬の安堵感があったけど、そんな簡単なものじゃなかった。わずかばかり木の密集が薄れた場所にすぎない。
藍色の夜の景色の中に、ぽつり、ぽつりと光る点が見える。
獣の眼が並んでいる。目の前に。後ろに。そして四方に。
あたしは自分の立ち位置が、すっかり狼に囲まれてしまっていたことに気づく。
膝が震えて一歩も動けない。

「や、やだやだやだ・・・食べないでお願い、もう許してぇぇぇ」

必死で首を振って喚いてみるけど、銀色の狼が、じりじりとこちらに距離を詰めてくる。
取り囲む狼は、それに合わせて、あたしに向かって輪を狭めてくる。
なんて狡猾で知能的な狩りをする獣だろう。
こんな身も凍るような状況でも、やっぱり月明りの下の銀色の獣は、とても綺麗に見えた。
鋭く尖ったあの白い牙に、あたし、ウサギみたいに引き裂かれて殺されてしまうんだろうか。

瞬間、

刹那の空を切り裂く音が耳に届いた。

途端に響くのは、大きく首を振って仰け反った銀の狼の、夜空に轟く悲鳴。
瞬きを忘れていたあたしの目に見えたのは、狼の首筋に一振りの短剣が突き刺さっている光景だった。
そして、一秒の間さえ開けずに、あたしの視界を捉えたのは。

鮮やかな、月の光の色。

茂みのほうから放たれた短剣に続いて、疾風のように身を翻す。
藍色の夜の下で、霞んで零れる月明りを弾き返して、流れ落ちる雫のような髪が揺れている。
白いマントを身に纏った彼女は、ちらりと一瞬、うずくまっているあたしの方へ視線を投げかけて、即座に狼に向かって剣を突きつける。
地面をざっと踏みしめて、寸分の無駄も無い動きで剣を構えていた。

あなたはだれ

囁こうとするけど、唇がかろうじて動くだけで、喉から声が出てこない。
何か言いかけたあたしに向かって、彼女はもう一度視線を向けたけれども、何も返事をせずに再び狼の方へ向き直る。
まるで幻を見ているようで、話しかけていいものかどうかも迷ってしまう。
ざわりと夜風が吹いて、月明りが目の前を照らし出す。
白い光に浮かび上がるように佇む彼女の姿は、まるで女神か、妖精か、あるいは。
月の光の色をした、花、みたいだ。

狼の悲鳴が聞こえる。
数頭が、甲高い鳴き声を上げて散らばっていくのが見える。
現れたのは目の前の彼女一人ではなかった。
バンダナを頭に巻いている、すらりとした男の人。柔和な表情に笑みを浮かべて、掌から滑るように短剣が放たれて、恐ろしげな唸りをあげる狼を一頭また一頭と着実に仕留めている。さっき銀の狼を射抜いた短剣と同じものだった。
もう一人は、黒いケープに身を包んだ男の子。逆光になっていて、遠くからだと顔は見えない。夜の闇に溶け込むように錯覚して、彼自身が動く影のように見えた。赤い光を散らす不思議な剣を振るっていて、突きつけると狼の方からすぐに逃げていく。

月色の髪の彼女は、あたしに背を向けて動かない。
突きつける切っ先には、銀色の狼。
首に刺さった短剣は、毛皮に遮られて、致命傷には至らなかったのだろう。
銀の毛並みに血の斑点を抱えて、殺気に満ちた獣の眼が血走っている。
凍りついた空気の中で、わずか一秒が数時間のことのように長く感じた。

あたしはうずくまったまま身動きできず、ずっとその光景を見ていた。
華やかなお芝居の、剣舞の場面みたいだ。
そのくらい、彼らが獣を散らす光景は、現実離れしていた。

「ペシェ!」

不意に、張り詰めた空気を破ったのは、短剣を使う男の人が叫んだ、声。
狼に牙を向けられても決して微笑を崩さなかった彼から、一瞬で余裕が消えていた。貫くような呼び声が届いた。
同時に、目の前の彼女が、右手のほうに視線を投げた。
暗闇に潜んで飛び掛ってきた狼を防ごうとして、彼女が差し出した右腕が、狼の鋭い牙にかかって血の雫が飛び散った。

幻かお芝居を見ているかのような、どこか非現実で夢見心地の気分は一瞬で吹き飛んでいた。
白い月明りに浮かび上がるように見えた、彫刻のように綺麗な横顔が、苦痛の色を浮かべて険しく歪む。
忌々しげに舌打ちをする声と、腕に牙を食い込ませたまま離れない狼のくぐもった呻きとが聞こえた。
真っ白なマントに、腕から滴る血の赤い染みが広がっていく。
噛まれている腕と逆の手で剣を構えなおして、もう一頭の銀の狼を抑えているけれども、充分な応戦ではないのは明らかだ。

あたし、何を馬鹿みたいに泣きながらうずくまっていたんだろう。
今まで潜んでいた狼の唸り声が、すぐ傍で響いて、全身がすくみあがった。
でもあたしが本当に恐ろしかったのは、狼の牙のほうじゃない。
何も出来ずに動けないでいるあたしを背中に庇いながら、狼の牙に腕を噛み裂かれて顔を歪めた彼女の姿を目の前にしながら。
それでもまだ何一つとして動けずに見ていた自分自身。一番信じられないのは、あたし自身だ。

「馬鹿」

吐き捨てるような声と共に、黒い影が目の前に舞い降りた。その手が振るう剣が、二頭の狼の首を薙ぐ。
崩れるように、動かなくなった毛皮がその場に伏せた。

「何してるんですか貴方は。咄嗟にとはいえ利き腕を餌にくれてやる剣士がどこにいます」

淡く霞む、月明りを背負って、黒い帽子とケープを身に付けた男の子が、冷ややかな視線をこちらに向けていた。
彼も、剣の彼女と似た月色の髪をしていた。顔半分がやっぱり影に隠れてよく見えなかったけれど、綺麗な顔の男の子だった。柘榴石のような瞳が、怪我をした彼女の右腕を見据えている。
駆けつけてきた、短剣の男の人がすぐさま右手の傷を見て、手当てを始めていた。

獣の声と不穏な空気が消えて、周囲には再び、夜の森の静寂に満ちた気配が戻ってくる。

まだ、頭が呆然としていて動かない。
言葉が出てこなかった。
あまりにも、夢のように鮮やかに剣を振るう姿に見とれてしまっていたけれど、この人は神様でもなければ幻でも女神でもない。
動けないあたしを庇って、自分の傷も厭わずに狼に立ち向かっている、普通の女の子だ。血が流れれば、痛いに決まっている。
剣を振るうとは思えないような細い右腕に、包帯代わりの布が手早く巻かれているけれど、その布もみるみる溢れる血に染まっていくのを見て、あたしは、息さえできないような心地になった。
体が震えて、胸が潰れそうな心地がする。

「あ・・・・・」

何かを思い出したように、大人しく右腕を差し出していた彼女がふと小さく声を上げた。
くるりと。
手当てをされている途中で、そのまま体を捻ってあたしの方を向いた。

「大丈夫か?」

月色の髪が揺れていた。まるで何事もなかったかのような顔をしてこちらを振り返る。
このときになって初めて、あたしは自分を助けてくれた女の子の顔を正面から見ることが出来た。
色白な頬をしている、気が強そうだけれども、優しいエメラルドグリーンの色の瞳。
その問いかけが、あたしに向けられた言葉だというのがすぐには理解できなかった。
胸が締め付けられて、苦しくて、体が震える。

堪えきれなくなって、叫んだ。

「あなたが大丈夫じゃないじゃないーーーー!!!!!」

叫んだ途端に、目から大粒の涙がぼろっと零れ落ちた。
助けてくれてありがとう、という言葉も、怪我をさせてしまってごめんなさいという言葉も、何も出てこない。
ただもう、白いマントに残る赤い染みが、申し訳なくて苦しくてたまらなかった。
叫びながら彼女に抱きつくと、そのまま勢いよく後ろにひっくり返って、まるであたしが彼女を押し潰すみたいな形で倒れこんでしまった。





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狼に遭遇したら背中を見せて逃げてはいけません。大きな物音を立ててビビらせればいいらしいよ!


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