『この場所のことを覚えていろ、必ず助けに行くから』

 
 あの声は一体、どこで聞いた言葉だったのだろう。
 紅の曼珠沙華を見つめていると、ふと、心の奥底に浮かび上がってくる。
 その度に何故か、肩の傷が痛むのだった。
「賊が……、潜んでいると、あの御方が仰っていた。見に来てよかった」
 そっと独りごちる。
 懐の小刀を静かに引き抜く。
 明瞭に研ぎ澄まされた――肌を刺す、いくつもの殺気。
 白い刃の三日月が、漆黒の夜を照らしていた。
 乾いた風が肌を斬る。
 影が、夜の闇の中を蠢いていた。
 捕らえられてなるものか。
 逃げ切らなくては。
 容易く追いつかれたりはしない。
 獣のような、殺気。
 無言でひたすら刃を繰り出してくる。問答無用で殺して奪うつもりだ。
「式神使いの男の、依り代を渡せ、雲居」
 誰が渡すものか。





 ぽたり ぽたり
 水の滴る音がした。
 ここは、どこだ。
「どうして、私を助けたの」
 何も返事は帰ってこなかった。
「あの御方のもとへ……、シュエン様のもとへ、帰らなくては」
「行くな」
「シュエン様のお命を狙う者は、私が許さない。私は、シュエン様の雲居刀だ」
「雲居?」
「式神を使役するための、依り代を持つ役目のこと」
「あなたは、誰の雲居刀でもないのね。でも、もしもシュエン様のことを狙うのならば、私はあなたを斬らなくてはならない。お願い、ここはどうか見逃して、私のことを追わないでほしい」
「そうか・・・・・・」
「私は、莉国の、リュキ。あなたは名前は」
「コクガ」
「そう」
「自分でも、愚かなことをしたと思うよ。……殺したくなかったから」
「そうね。じゃあ、私もあなたを殺さない。害を成す立場のものでない限りは」
「一つだけ、聞きたい。お前の肩の、火傷の痕は何だ」
「これは、シュエン様に命を救われたときにできたもの」
 細い水流を辿って、木陰の間をすり抜ける。
 朧に霞む夜の空に、淡い月が見えていた。
 足元には、一輪の曼珠沙華の花。



 【一】



 雲の切れ間から、滲むような月影が毀れてくる。
 梟の羽音が聞こえた。
 石壁には、ざらざらとした手触りの苔、そして細い蔦が貼りついている。
 足元には、小石が一つ、またもう一つ。小さな翡翠色の粒が合間に見えた。
 玉虫が潜んでいて、すぐに雑草の陰に隠れて見えなくなる。
 水辺の縁には、薄羽蜉蝣の死骸が重なり合っていた。

 何か、いる。
 どこだ。
 どこに隠れている。

 夜の闇の中では、私の心は人ではなかった。足音を立てずに狩りを行う獣の本能に変じていた。腕の細さは武骨な男手には劣るものの、小刀を操ってしなやかに動く手首と指先は、太刀を振る衛士にも決して劣らない。
 闇夜に歩く牙と爪。
 どこからか、夜風に混じって油の匂いが漂っている。
「リュキ、何か聞こえたか」
 振り返って問う声音は、低く穏やかで、夜風の響きと似ていた。
「いいえ、しかし、微かに油のような匂いがするようです」
 ざわりと、湿った夜風が肌を撫でる。
 梟の鳴く声の、くぐもった響きが耳に届く。
「常人より、眼も感覚も優れているお前のことだ。もしや私には見ることができない何かを感じ取っているのではないかと思ったが」
 何かを感じ取っている。その言葉にはおそらく間違いは無いのだ。
 夜の風には、多かれ少なかれ、主の手から逃れた魔物が徘徊する。そして屍を喰い啜るのだ。
「今日は私も共に居ることだ。一人で先走りだけはせぬようにな」
「百鬼の魔物の力は、私には操ることができません。もしも、何者かがシュエン様の持つお力を狙って侵略しているのならば、私にできるのは、与えられた刃を手にして戦うことのみです」
 常に懐に携えている小刀。胸元に掲げて、目の前の御方へと示す。
 漆塗りの柄を握り締める度に、首筋の傷の痕が、肌を噛むように痛むのだ。爛れた肌の火傷の痕が。
 掌にちょうど収まる大きさの直刀。螺鈿の細工と、掘り込まれた朱の曼珠沙華の柄飾り。
 緋色に踊る花弁の絵柄は、御方が使役する炎の華によく似ている。
 一度見つめると、心ごと吸い寄せられるような鮮やかな紅を誇っていた。
 ふと、前を歩いていた主が足を止めた。
 錆びた鉄の匂いがする。
「見張りがやられているな」
 シュエン様のお声は、鋭い険を含んでいた。
 散らばっているのは、岩と泥の塊と、折れた刃の破片。
「土人形が」
「式神を壊されている」
 足元に手を伸ばして、白い石の破片を拾い上げた。土人形を操るときに必要な依り代となる石で、シュエン様は、有する百鬼の魔物の力で精霊や式神をこの依り代に宿して従えるのだと。
「もう、精霊を従えることはできないのですか・・・・・・」
「そんなことはない。ただ依り代が壊されただけだ。私の力そのものが打ち砕かれたわけではない」
 思わず息を呑んだが、シュエン様はすぐに苦笑して首を振っていた。
「やはり、賊が侵入してきているな」 
 砕かれた白い石は、シュエン様の手の中で、更に細かく砕けて、塩の塊のようになった。指先から滑り落ちて、土の上に毀れる。
「水路から隠し通路を使ってたどってきているのならば、やっかいだな。いつ城内に忍び込まれてもおかしくない」
「城内に・・・・・・、シュエン様の従える式神も、何人ものヤハギもいるのに、それは不可能では」
 ヤハギ――八刃接というのは、領主に仕える衛士の中でも、特に腕の立つ、側近として付き従う者のことを呼ぶ。 
 手の甲にある刺青は、主への忠誠の証となる。たとえば、この手にある紋のように。
「だが、ハヤザであれば、やりかねないな」
 噛み締めるように、ぽつりと、ひとりごちた御方の口元は、薄く笑みの形を浮かべていた。
 ふと、何者かの視線を感じた。振り返って、木立の合間に目を凝らす。
 何もいない。
 獣の気配さえ存在しない。
 今のは、誰か。いいや、それともモノか。

 月影が、曇りゆく。
 呑みこまれていく、闇夜。







 かつん、かつん、と。
 丸く削られた貝を並べて、姫様は色褪せた地図を眺めている。
「この城の周りは、堀が巡らされているおかげでどうにか護られているけれども・・・・・・、外は酷い有様ですね。領土は無事なのでしょうか」
「百鬼の魔物が徘徊して、人間を食い荒らしているからでしょう」
「その人間を殺す百鬼の魔物を、操っているのもまた人間でしょう。そういった手の者を制さない限りは、血の匂いの絶えぬ夜ばかりが続くことになる。昼間もまた、濁った風ばかりで、とても外に出ようとは思えないもので」
「ならば私が、狩って参ります」
 静かに私が告げると、姫――巡留姫は、灯籠の明かりの中で、ゆっくりとこちらを振り返る。あどけなさの残る面差しの、まだ若すぎる女領主は、不安げに瞬きを繰り返して、私のことをじっと見つめていた。
「リュキ、貴女はシュエンの傍を離れられないでしょう」
「いいえ……、シュエン様はそもそも、巡留姫様のお傍について、姫様をお護りするのがお役目で御座います。ならば私が、シュエン様の代わりに刀を取ります」
「女ごときが、護身刀気取りか」
 嘲る笑い声に振り返ると、大刀を担いだ男が立っている。霧万という、ヤハギの一人だ。左手には莉国の紋の刺青がある。
「男だの女だのは関係ないでしょう。その台詞、巡留様の前で言ってみたらどう。だいたい、あなたが衛士を統率できていないから、表では騒乱が収まらないのでしょう」
「仕方ないさ、うざったい小鬼ばかりがひしめいているんだ。あんなの、勝手に食い合いさせておけばいい。共食いを繰り返せばそのうち少しは静かになるだろ」
 気だるげに欠伸を吐いている。
「そう、あなたは元々、莉国に侵略された小国の王だったそうだものね。私達の国が荒れても、大して興味は無いのでしょう」
「無いことはないさ。百鬼の魔物の力は、できれば手に入れたい」
 またこんなことを言っている。それができないから、シュエン様の下について付き従っているのだろうに。冗談なのか本気なのかわからない。
「お前は、元いたところに帰りたいとは思わないのか」
「私には、ここしか帰れる場所なんて無いから……」
 灯籠の炎が、ちらちらと揺れている。
 紅く閃く、陽炎。
 自分の手を、静かに右肩の上に添える。
「この傷跡がある限り、私はあの御方のもの」
 格子窓の向こうの、漆黒の夜の下、風のような微かな笛の音色が溶けている。あのお方が、式神を使役して、不屈の魔物を祓っている。この響きが届く限りは、城は護られている。
 しかし、昨今、シュエン様の従える土人形が、多く斬り崩されているのが見つかる。昨夜、堀の周囲を見回っただけでも、両の手で数え切れぬほどの土人形の残骸が見つかった。式神を憑依させた無敵の衛士が、これほど倒されるとは。
「ハヤザの仕業だな。連中が侵入したに違いない。以前から手を焼いていたからな」
「ハヤザ、とは」
「隼座。土蜘蛛のことだ。国を持たない氏族だという。
 奴らは、姫神王の治めていた百鬼の魔物とは、違う妖術を操るそうだな」
 霧万が、口元の両端を愉しげに歪めている。その下賎な薄笑いの意味がわからない。太刀を振り回すだけの、戦好きのヤハギだと、こういう者ばかりのようだ。
 輩は、どこから侵入してきている。
 この水路の中に造られている、隠し通路のどれかを使っているに違いないのだ。
 湿った空気の匂いと、淀んだ水の匂いがした。
 地形を利用して造られた、城の周りを囲む堀は、積み上げられた石の壁によって複雑な水路の形を作り上げ、網の目上になっている。有事の際の要塞、物資の補給のための通路もさることながら、そのうちのいくつかは、隠し通路として使われている。手動で開閉する水門や橋を動かす仕掛けを知らない限り、通れないようになっている。そのうちのどれかは、城の中につながり、どれかは地下牢と?がっているという。私とて、全てを把握しきれてはいない。
 水音が響いていた。何かの獣の死骸が、流れの真ん中に浮いている。
 いいや、獣の死骸だけではない。これは人の死体が腐る匂いだ。
 すらりと、太刀が鞘滑りする音が間近で聞こえた。
 空気が凍る一瞬の感覚 ――殺気。
 暗闇の中に身を沈める。その瞬間に虚空を薙ぐ、銀色の刃。
 石壁に当たった切っ先が、高い音を立てた。
 ――土蜘蛛か。侵入者だ。
 背後を取られたくらいで易々と屈したりするものか。
 逆手に握った短刀で、私は相手の太刀を受け流してそのまま真っ直ぐに切っ先を繰り出す。
 氷を穿つような澄み渡った音がして、手首に衝撃が走った。手にしていた小刀は、一瞬で弾き返されていた。
 何かの呪術でも使ったのではないかと、目を疑った。まるで、自分の動きが全て先回りされているかのように、翻す刃がことごとく阻まれて、流される。心が読まれている? そんな、まさか。私の太刀筋が、皆見透かされているなんて。
 体格差はそこまでではない。大男というほどではない、若い男だ。繰り出す得物も、特に奇怪な刀ではない。ましてや、妖かしや百鬼の魔物のような得体の知れない何かを操っている気配は無い。
 だから余計に、この男の速さが、太刀捌きが、私の刃をいとも簡単に滑らせてしまう手腕が、奇怪なものに感じられた。
 相手の影が、暗闇の中に溶けた。
 見えなかった。思わず息を呑む。
 次の瞬間、右肩に重い衝撃が走る。
「っ……!」
 自分の体に突き立っている、相手の直刀。長さは肘より短いくらいで、 狭い場所でも非常に小回りが効く種類のもの。
 たちまち、湿った空気の中に、鉄の匂いが満ちる。
 歯を食いしばって、直刀を抜こうとすると、すぐにその手は相手の手に掴まれる。手首を捻られる痛みと、更に刃が食い込む振動。
 相手は鋭く私を見据えていて、獲物を見定める隼のような眼をしていた。
 これが、隼座というものか。
「……俺のことを思い出したか?」
 感情を殺した、低く囁く声音。
 その口調に、わずかばかり心が揺らいだ。
「まさか……」
 肩から肘を伝って、ぽたりぽたりと、血の雫が滴り落ちる。
「私を助けたと見せかけて……私の後をつけていたの……」
 肩に刺さる刃に、力がこもる。ぎしりと骨が軋んだ。
「うぐ……」 
「安心しろ、殺すつもりは無い。お前がもし、あの男の――シュエンが使役している百鬼の魔物のことについて何か詳しく知っているのなら、是が非でも話してもらう」





 【三】


 ぽたり ぽたり


 静かな水音が耳に届いた。
 ここはどこだ。 
 体が、痺れたように動かない。
 どろりと重く霞んだ視界。

 混迷する意識。
 血の匂い。
 唇を動かそうとすると、苦い薬の味が舌に残って絡み付いていた。
「・・・・・・貴様のその手の印、莉国の雲居刀が彫っているものだな」
 声はすぐ頭上から降ってくる。
 はっと我に帰って、地に伏したままの体を撥ね起こそうとする。
 途端、稲妻のような激痛が全身を貫く。
 声にならない呻きを上げて、そのまま突っ伏した状態で動けずにいた。
 痛みの迸った自分の右腕に目を留める。
 真っ直ぐに刺さって、貫通している、一本の矢。堅い土の地面にまで、体を縫いとめている。爛れた傷跡の合間から、赤黒い血が滲んで土に染み込んでいた。
 その矢を握って、私のことを何者かが見下ろして、佇んでいる。
 着ている装束は、水路で刃を交えたあの男の身なりと多少似通っていた。体に巻きつけるような丈の短い黒の着物と、首から胸と胴まで覆う、銀の鎖帷子。背中と腰に携えた大小の太刀。髪は結い上げずに一つに縛って背中に垂らしていた。
「はな、せ」
 かろうじて、切れ切れに息を吐いて、それだけ言うのが精一杯だった。
 見えなくてもわかる。
 人のことを見下して、あざ笑っている視線だ。その根底にあるのは、牙をむく敵意。
「お前がシュエンの手の内の者だって言うのはわかっている」
「それが、なんだ」
 私の体を甚振るかのように、腕を貫いている矢が強く地面に突き刺そうとする。
 まるで毒蜘蛛の牙のようだ。
「やはり俺のことも覚えてないようだな」
 薄く嘲るような笑みを口元に浮かべる。その眼差しには冷酷な光が燃えていた。憎しみとも嫌悪とも、侮蔑とも取れる眼の色だった。
「まぁ、命乞いしたって、俺は貴様を許すつもりはないが。一体あれからどれだけ、俺達の仲間が殺られたと思ってる。それに俺達の仲間が一人、土人形に追われてから帰ってきていない。何か知っているなら、吐け」
「やっぱり、シュエン様の土人形を打ち砕いたのは、お前達だったのか」
 粉々になった土と岩の塊と、赤黒く溶けた泥、そして白い石の破片の光景が、脳裏に浮かぶ。
「何が土人形だ。百鬼の魔物とやらの技か、穢らわしい。あんなものを容易く造り出すあの男こそ、よほど化物じみているな」
 貫かれる痛みよりも、一層激しい苦痛が胸の内を焙る。
 人間の衛士を使わず、極力死人を出さないように、百機の魔物の力で式神を従えて、土から兵を生み出しているのに。それを嘲笑うなど絶対に許さない。
「そうか、あの化物使いの領主に従ってる貴様も、すでに化物だったな。百鬼の魔物なんぞ、我々、隼座の氏族が全部葬ってやる。戦闘力に関しては、俺達ハヤザが最強だからな、どんな怪しい呪術使いだろうと、知ったことか。貴様らが支配しようとしている土地は、いずれ我々が手に入れて見せる」 
 ふと、男の言葉がそこで途切れて、視線を木立の合間に向けた。
 人の気配がした。
「あいつをどうする」
「どうして殺さなかった」
「つれて帰ってきたのは、コクガだ。あの女と直接刃を交えたからだろう」
「ビヤトが射抜いて見張っている。あいつが見ているなら心配ないだろう。しくじるはずが無い」
 何人かが話している声が耳に届く。
「あいつは、どこに捕らえている」
 声が、聞こえた。
 低く沈んだ、無感情な声色。
 この声、聞き覚えがある。忘れるはずがない。
 水路で刃を交えた、あの男の声だった。
「石牢の中にいる。あんな檻で本当に閉じ込めておけるのかどうかわからないが」
 かすかに届く声が切れ切れにしか聞き取れない。が、おそらく私のことを話しているようだというのは理解できた。
 そうか。これは檻か。
 コクガ。やっぱり、さっきの男が。
 私の刃をことごとく弾いた、恐ろしいほどの俊腕の太刀。
 逃げなくては。
 ここから逃げなくては。
 こんなところで殺されるわけにはいかない。
「逃げようとしても無駄だよ」 
 背に負った太刀の柄を握ろうとした少年を、コクガが手で制した。
 見た目だけではすぐに見定めることが難しいが、話している声や背格好、身振りの様子を見ていると、ハヤザの中には少年や女もごく当然のように混ざっているようだった。 
「お前に一つ聞きたいことがある」
 コクガが取り出したのは、白い石の破片のようなもの。
 光が当たると、油膜のような色彩を持った光沢を放つ。
 土に汚れているが、それでもてらてらと怪しい色を見せていた。
「これを知っているな。答えろ。『これ』は、何だ」
「……シュエン様の操る式神の依り代だ」
 私が安易にこういうことを敵側に告げていいものか、という躊躇は幾許かあった。
「その依り代は、シュエンが土人形を操るときに使っているものだろう。「獣の骨のように見えて気味が悪いな」
 矢を握る男が、目を細めて吐き捨てるように零していた。
「私が答える代わりに、そっちも私の問いに答えろ」
 駆けに出てみるか。
「お前達は莉の国のものか、それとも、瑛の国のものか」
「どちらでもない。俺達は”ハヤザ”だ」
「ハヤザ……」
 霧万が言っていた。百鬼の魔物とは、全く異なる力を持った氏族だと。
「お前の言う、シュエン様とやらは莉国の人間か」
「そうだ。瑛の国と、莉の国と、それぞれが土地の支配をしようと略奪している。お前達もそのどちらかだろう」
「違うな。そのどれにも属さないのが”隼座”だ。
 古来からそれぞれ、独自の技術や剣技を持った氏族のことだ」
 今はばらばらに多くの国が乱立している。
 二百年前、その百を超える小さな国は、一人の姫神王が納めて統治した国家だった。
 だが、権力を求めて欲に眩んだ弟将軍が、姫神王を弑逆したために、
殺された姫神が呪力を持って納めていた百鬼の魔物が、地上に溢れかえり、人心は乱れて、人と人同士が殺しあう世の中に変わり果てたのだと、歴史を伝える高僧は説いて語っている。
 その時に地上に溢れた、本来人の世の中にあってはならない妖魔の呪力をもって、この国を、かつての姫神王のように一つに統治しようと君臨する者達が、自らを王と名乗る。
 だから、今も月明かりの下では、血飛沫と腐臭と土の匂いが絶えないのだ。
「俺達ハヤザは、お前達のような、国の名を名乗るものが嫌いだよ。奴らは、百鬼の魔物の呪力と同じように、俺達のようなハヤザが持っている力や技を、特別なものだとみなしている。気に入った氏族があると、懐柔にかかるか、あるいは殲滅の脅しをかけて、手の内に抱え込んで飼いならそうとするんだ。まるで奴隷みたいに。従属に下ったハヤザは、手の甲に刺青をされるからすぐにわかる」
「お前達の話しなど聞かされても、私には関係ない。
 私はただ、シュエン様の護りたいものを、護りたいんだ」
「護りたいもの、だ? あの男も、他の国の支配者達と同じ、余所の領主とどこが違うんだ。力ずくで他者をねじ伏せて、世の中を自分の思い通りに操りたいと思っているだけじゃないのか」
「違う、シュエン様は、他の領主とは違う。
 あの方は、精霊の声が聞ける御方なんだ」
 傷跡が痛む。
 首筋から肩、背中の一部、そして腕から肘に至るまで。
 私のことを殺して飲み込もうとした、あの紅い業火。
 許さない。
 絶対に許すものか。






 記憶にあるのは、炎の緋、血飛沫の紅。

 獣が唸るような音。
 金粉をまくような火の粉の閃き。
 私の手を縛める鎖。焔の檻。
 
 紅の炎が揺らいでいた。
 まるで赤い華のように。
 
 いやだ。
 しにたくない。

 たすけて。

 熱せられた空気は、咽ぶ喉を焼き、助けを求める声は言葉にならなかった。
 炎が肌を舐め、体を貫く。
 
 痛い。
 痛い痛い痛い。

 このまま独りで消えてしまいたくない。

「おいで」

 金色の火の華が舞い踊る中から、私に向かって微笑む眼差しが。

「私なら、お前を助けてやることができる。私のもとへおいで。共に行こう」

 そうして差し伸べられた手があった。







 首筋から肩、右腕、肘に至るまで、濁った紫色に焼け爛れた酷い火傷の痕が残った。瞼の裏に焼きついた、あの凄まじい炎の檻の中から連れ出されて、よくこれだけで済んだことだと、いっそ信じがたくもある。
 臥した体には、湿布のようなものが貼り付けられていた。香のような匂いと、何かの薬草の匂いが混じりあっている。鼻と喉の奥を突き刺すような匂いがして、むせ返りそうになった。
 だが、呼吸ができているという証拠だった。
 意識が朦朧としていて、自分がどこにいるのか、何をしているのか思い出せない。
 目に焼きついているのは、金色の炎の華。
「体は動かせるか」
 低く、穏やかに囁く声音が、私の耳に染み込んでくる。
 目の前に佇んで、静かに微笑みながら、私を見下ろしているのは、紫の衣を召した青年。山伏か修行僧のような結い袈裟姿だが、衣は綺麗に整えられていて、身分のある位なのだろうと見て取れた。衛士が佩くような長刀ではなく、女人が身につけるような懐刀を携えている。
「可哀想に、お前は仲間に見捨てられてしまったのか」
 ぽつり、ぽつりと。
 消えかけた灯火が、再び明かりを灯すように。
 混濁した意識の中から、記憶の欠片が浮かび上がる。
「どうして・・・・・・・」
「お前が、百鬼の魔物の力を引き寄せてしまったためだろう」
 自分を縛める灰色の鎖。
 一面を包み込む炎の檻。
 自分を取り囲む複数の人間。向けられる突き刺すような冷たい視線。
 百鬼の魔物は、主の手を逃れると、好き勝手に徘徊して、人間を食い殺すぞ。焼き払え。殺してしまえ。
 頭の中に響く声に、全身の血が凍る心地がする。震えて耳を塞いでも、延々と自分の内で響いてくる。
 この恐怖は、肌に、骨の髄に、脳の奥底にまで染み込んでいる。
 じわりと、肌を嬲る火傷の痛みがよみがえる。
 痛い。
 痛い痛い痛い。
「生きたいと、お前は炎の中で泣いて私にすがっていたよ。連れてくることができてよかった。莉の国は焼き払われてしまったが」
 低く囁く、穏やかな声音。
 紫の衣を纏う、すらりと華奢な体躯。凛として且つ楚々として。
 人を強く引き寄せる、鮮やかに閃く炎の華のような。
「私は、百鬼の魔物の内の一つを従える、莉の土地を護る者。お前も知っているように、古より、姫神王のような唯一の統治者を亡くしてから、このように戦の絶えない現し世が続いている。私の力を持って、必ずこの血と血で奪い合うような乱世を終わらせよう。
 私と、共に来ておくれ」

 私の中で、赤い火の粉が爆ぜた。







 【四】



 ぽつり、ぽつりと。
 紅い花が咲いている。
 木陰にほんの少し。潜むように。
 堀の水路の付近にも、城の敷地から離れた荒地にも、あの花はあちらこちらによく咲いている。
 紅い曼珠沙華。
 あの花は、地の下に潜む百鬼の魔物と?がっているのだと聞いている。
 何だろう。
 脳裏の端に、ちらちら掠めるものが。
 まるで陽炎のように記憶の中で揺らいでいる。
 そのたびに、じわりじわりと、火傷の痕が滲みるように痛む。
 細く、風の疾るような音が耳に届いた。
 朱笛の音色。
 夜目が効くことがかろうじて幸いした。
 感情に流されていては何もできない。
 ハヤザの連中が何事を話し合っているかはしらないが、やがて私を戒めたままでどこかへ姿を消した。
 一旦、自分が今閉じ込められているこの場所をよく眺めてみた。
 石窟、と呼べるほどのものではないが、元々の地形を利用して岩壁の隙間に、隠れ処を造っているようだ。そして私の居る場所は、袋小路になっている。
 手の甲を貫いている矢を、折るか引き抜くか、どうにかしなくては。、私のことを殺しもせず縛めもせず、見張りもおかずに放っておくなど、たったこの一本の矢でそこまでの拘束力があるということか。ただし、意識が戻ってから延々と、骨が軋み脊髄に響くほどの激痛に苛まれても、まっずぐに突き立った矢の柄がびくともしない。
「その矢は、一度射抜くとそう易々とは抜けない」
 降って涌いた、唐突に聞こえた声に、思わず弾かれたように顔を上げた。気配を全く感じなかった。まるで暗闇と同化しているかのよう。
「いつから、そこに」
「お前が、誰もいなくなったと思い込んだあたりからずっといたけどな」
 石窟の縁に、背を寄せた姿勢で佇む人影があった。遭遇するのが、まともに顔が見れない状況ばかりだったのもあって、この低く沈んだ声音と、視線の感覚だけ先に覚えてしまった。
 遠くから、木擦れがざわめく音が聞こえる。羽虫が一斉に蠢くときの気配に似ていた。
「あの音は、シュエンの傀儡の笛の音か。いやに耳を刺すな」
 聞き取っていたのは、私だけではなかったらしい。夜風の中に混じって、かすかに響く高い音色。
「あれで、式神を従えて使っているんだろ。お前は、行かなくていいのか」
  手練の、ハヤザの一人――コクガが、砕かれた依り代の破片を掌の中で転がしながら、その白い欠片を見分していた。灯りのない暗闇の中にあっても、鈍く照り輝いているのが見える。白い石の表面に、溶け合った色彩を持つ石。
「それは、皮肉のつもり」
 いまだにここから身動きができず、腕から苦痛を滴らせて這っているしかできない。
「どうしてあの時、私のことを助けたの」
「少しだけ、口調が戻ったな。心を許さない相手には男みたいな口調で話すのに」
「そんなこと関係ないし、別に気を許すはずなんて」
 首を項垂れて、視線を地に伏せた。
 そうだ。気を許してしまったのかもしれない。それが大きな間違いだった。
「教えてくれ。依り代はどうやったら壊せるんだ。俺達はそれが知りたいんだ。それさえ可能なら、お前のことを助けてやる」
「命惜しさに私が願えるとでも思ってるの。そんなふうに私のことを見下していると言うのなら、今すぐ私の首を斬るといいわ」
「どうして、そこまであの男に従おうとする。そんなふうに刷り込まれているのか」
「あなたは、私の傷を見たはずよ。私の祖国を焼き払われたときに負ったもので、シュエン様は、そこから私を助けてくれた……」
無感情な冷めた瞳が私を見据えている。
 静かに私の傍へ歩み寄ると、おもむろに、私の腕を射止めている矢へと手をかけた。次の瞬間には、呆気ないほど簡単に、矢尻が外れた。苛む激痛も、ほんの一瞬で消える。
「何……」
「お前に、見せたいものがある。俺について来てくれ」
 
 










 破璃硝子が砕け散るような音が響く。
 耳を突き刺すような激しい音に、ハヤザの連中が一瞬気を取られて動きを止めた。
 紅い大蛇が現れる。
 それはシュエン様が呪いをかけている幻術であると、私は知っている。
「これが、封じられた百鬼の呪力を使った魔物か」
 コクガは即座に、携えた太刀を引き抜いて身構えた。
 並みの人間なら、取り乱して悲鳴を上げるところだが、このくらいのことでは取り乱さないのがこの連中か。
 なるほど。手強い輩だ。
「そこをどけ」
 コクガ。
 この男が、おそらく一番手強い。
 鳶色の髪と瞳。浅黒く焼けた肌。
「来いよ。力ずくでも」
 殺してやる。殺してやる。
 銀の刃が交錯する。
 鋼を打ち合う音が響く。
 まるで獣の悲鳴のよう。 
 傷が痛む。
「見縊るなよ」
 空気を唸らせて、太刀が傍らを翻る。
 片手でそれを払うのはさすがに無理だった。翳した刃を滑らせて、受け流して避けた。
 そのときに、低く囁く、耳に届く声。
「お前を殺すのは、俺の役目だ」
 感情を殺した、低く冷めた言葉。
 ハヤザとは、獣だ。
「殺してみろ。殺せるものなら」
 帰るんだ。
 シュエン様のところへ。
 この傷跡がある限り、私の全てはあのお方のものだ。
「探したぞ。リュキを、私の元へ返してもらおうか」
 聞きなじみのある、低く落ち着いた、穏やかな声音が私の耳に届いた。
 紅の花が、舞い踊る。
「……シュエン様」
 私のことを助けに来てくださった。
 あの時と同じだ。
 最初に出会ったときのように。
 私を絶望の縁から救い上げてくれる、唯一の人。
「リュキ、無事か。ああ、よかった。私の大切な雲居刀。お前が不遜な輩に傷つけられているのではないかと気が気でなかった」
 まだ腕に、矢で射抜かれたときの傷がそのまま残っている。身に着けた衣は肩まで裂けて、乾ききってない血と、乾きかけた土色の血の塊とが肌に張り付いていた。
「どうしてシュエン様がここに」
「お前が消えたから、探しにきたに決まっている。私の式神が、不穏な気配を察して昨夜からずっと呻いているのでな」
 途端に、鈍い銀色が視界を掠めた。
 翻る、刃。
 牙をむく獣の殺気。
 金属が軋みあう音を響かせて、刃と刃が擦れた。
「愚かな、獣め……」
「こっちの台詞だ、貴様と対峙する機会をずっと待っていた。やっとお目にかかることができたぜ」
 眼が殺気に燃えていた。
 獲物を駆る猛禽の眼だ。
「お前達のせいで、私のかつての国は灰に変わった。そのときに何百も同胞が命を落とした。
 その借りは返させてもらうぞ」
「貴様のでぐ人形のような同胞とやらなぞ、知るもんか」
 紅い火の粉が舞い踊る。

 傷痕が、痛む。
 痛い
 痛い痛い痛い

 あの炎が私から何もかも奪った。

「お前達の研ぎ澄まされた剣戯は、確かに美しい。流れる水のような、滑らかな刃の動きをしている。
 だがそれも、お前達のように、血に飢えた獣の牙に似た無秩序な闘志に任せていては、それも無駄な殺戮に終わる。
 この世にあっては災いとなるだけだ」
「貴様の語るこの世など、お前の信じる世界なんて、俺達が生きる世界には一切関わりない。
 俺達からすれば、貴様の操る呪術こそ、目障りでならないんでね」
 吐き捨てるように言い放って、嘲笑を浮かべてシュエン様をにらみつけている、コクガの眼の色に、激しい炎のような感情が漲っていた。
 背筋が寒くなるような心地がした。

 殺してやる。
 殺してやる殺してやる殺してやる。

 人間が人間に対して、ここまで深く激しい殺気を突き刺すことができるのかと。
 させるものか。

 土人形と刃を交えていた、ハヤザの少年が、途端にはっと表情を凍りつかせた。
「まさか、ミユウ……」
 震える囁きが、唇から毀れた。
 それに気づいたコクガもまた、表情を青ざめさせている。
「駄目だ! シダ! 手を止めるんじゃない!」
 刃競り合いをしていた土人形の刃が、振り下ろされる。
 その次の瞬間には、容赦なく打ち下ろされた刃が、ハヤザの少年の首筋から胴の辺りまで、深々と食い込んでいた。
 見る間に、鮮血の波が広がる。
「シダ……」
 ぎり、と耳に届くほどの強い歯噛みの音をさせて、コクガは顔を歪めていた。
 びしゃり、と鈍い水音を立てて、命を失った亡骸が、血飛沫の中心に転がる。
「ちくしょう……ッ!」
 口元の血を乱暴に拭って、舌打ちをする。
 そして踵を返して、土人形の一つを、一太刀で斬り伏せた。
 鮮血を吸って黒く染まった土人形の破片が、ぐずぐずと血の海の中で崩れていく。
 人の亡骸と土人形の破片が混ざり合って、肉塊だか岩だか見分けがつかないようなものが、沢山散らばっていた。
 そしてコクガは残りの土人形をもすぐさま斬り破って、身を翻して逃走する。
 待て。
 即座に追いかけようとする私を、シュエン様が制した。
「追う必要は無い」




 目の前のものが、何もかも燃えていた。
 紅い魔物に飲み込まれていた。

 痛い。
 痛い痛い痛い。

 たすけて。

「百鬼の魔物を手に入れるためだ。城ごとすべて焼き払ってしまえ。城内の者は一人も逃がすな」

 やめて。
 たすけて。しにたくない。

「可哀想に。仲間さえ見捨てていくのか」

 あなたは誰。
 紅い炎が、美しい蝶の羽のようにひらひらと舞っている。

「私は、魔物を操る者の一人。この力のせいで疎まれることもあるが、こうしてお前とめぐり合ったのも、縁があったに違いない」

 低く囁く、穏やかな声音。

「炎は美しいが、牙を向く魔物でもある。
 お前は、なぜここに捕らわれているのか」

 わからない。
 どうして、自分が鎖に?がれて、炎に身を焼かれているのかも。
 何があったのかわからない。

 ただ、激しい痛みだけが私の現実だった。

「お前は、体の内に魔物を飼っているようだね。今は力を持たずに眠っているようだが」

 私と共においで。
 この世界を変えよう。

 そして、私の体に残る火傷の痕が、あの方に私の命を救われた証。
 あの痛みだけは決して、忘れることができない。





 短刀の、柄の飾りが壊れてしまった。螺鈿飾りの部分に亀裂が走っていて、やがて脆くも砕けてしまった。
 白い光沢が、骨の欠片のように毀れる。
 これは私が雲居刀の称を与えられた時からシュエン様から授かったもので、それ故に大切なものであることには変わりないのだが。
 掌に散らばる、細かい螺鈿の欠片を見つめていると、自分の半分が崩れてしまったような、酷く痛々しく空虚な心地が全身に満ちた。
 何なんだろう。この奇妙な胸騒ぎは。
 自分の鼓動の音が、呼吸が、じわじわと狂っていくような息苦しさ。それに反して、ずきりずきりと、肩の傷跡の痛みだけが消えない。
 火傷の痕の上に、深く抉られた刀傷が残っていた。まだ血が止まらない。焼け付くような痛みだった。


 見せたいものがあるからついてきてほしい。
 罠にかけるにしても、何か意図があるにしても、どうにも不可解な言葉だった。
 コクガが、私に何を仕掛けたいのかが全く読めなかった。
 一度目、私の太刀をことごとく受け流して、一切歯が立たなかった。二度目。なぜかそのとき手傷を負った私のことを、わざわざ隠れ場に運んでまで介抱した。三度目。私を助けたのは、ハヤザの同士の輩に受け渡して情報を探ろうとするための罠だと知る。そして、今、恐らくは他のハヤザの仲間には隠れて行っていると思われる、この呼び出しは一体何なのか。
 いざなわれたのは、一度、深手を負った私を助けてくれた、あの水辺の付近だった。木立に隠れた路で、崖に沿った岩場の辺りに洞になった場所がある。身を隠すのに適した隠れ処だった。
 その途中。曼珠沙華が一面に咲き並んでいた。
 まるで紅い蜘蛛の群がりのような、蠢く鮮やかな緋色。
「知っているか、リュキ」
「何……」
「シュエンの操る式神というのは、人間の死体を化生させた土人形だ。
 あの男は……ハヤザの力を我が物にしたいんだよ。
 俺達の仲間を殺して、その死体を自分の操り人形にして使っている。
 あんな醜い土人形に姿を変えられても、剣の裁き方を見れば、それが俺達の仲間の誰かなんて、俺には一目でわかる。絶対に許すものか」
 人間の死体、を。
 操って駒に変えていると。
 そんなまさか。
「あの優しい方が、そんな酷いことをできるはずがない……」
「ああ、優しいだろうよ。自分の作品に対してはな。
 お前もそうじゃないのか、リュキ」
「私が……」
「お前の持っている螺鈿の小刀は、あの男がお前に与えたものか」
「そうよ」
「そうだろうな。曼珠沙華の花飾り。気に入った人形にはそれを与えるものな」
 静かに、何かを懐から取り出して、私の目の前に差し出した。
「リュキ、この短刀に見覚えはあるか」
 差し出された一振りの太刀。
「これは、あなた達ハヤザが持つ短刀ではないの」
 コクガは無言だった。
「見覚えはないか、そう聞いている」
 じっと、短刀を見つめる。
 何も思い当たることはない。
 ただ、その問いかけを出された、この短刀の正体が、何か私にとって恐ろしいものであることを予感していた。
「……知らない」
 一瞬、コクガの顔が険しく歪んだ。
 隠している感情が、わずかに面に出た表情の変化だ。
 それは、苦痛のようでもあり、悲哀の色にも見えた。
「これは、お前の持っていた短刀だ。リュキ。お前が、シュエンの元に連れさらわれる前に、お前が俺に預けていった。記憶を消されても、きっとこの短刀を見たら思い出すからと、そう俺に託した。
お前は……元々は、俺達ハヤザの側の人間だよ」
 何を言っているのか。
「肩に傷痕があるだろう、火傷で覆われた傷痕が。お前はそれも、何も覚えていないか」


 ぽつり、ぽつりと。
 心の中に投げ込まれていく、小石。
 波打つ波紋。

 あの場所に見覚えが無いはずがなかった。
 急に、頭の中の霞が拭われたかのように、脳裏に浮かんでくる光景がある。

「依り代に宿られてるな」
「あの男に斬られたか、リュキ」
 私を取り囲んで、携えた刃の切っ先は私に向けられている。
 仲間だと信じていたはずの者達からの、冷たい視線に刺されながら。
「そんな、そんなはずない・・・・・・、私、生きてるよ? 土人形なんかじゃない、ちゃんとこうして息をして、自分の意思で体を動かしてる、私はちゃんと・・・・・・」
 頭上に浮かぶのは、半分に欠けた月。不穏に揺らぐ紅い月影。やがて黒い雲に掠れて、隠れて見えなくなる。閉ざされた長い夜。漆黒の闇。
「ならば一度、太刀で体を貫いてみるといい、依り代にされた者は、刀で斬られたくらいでは簡単に死なないと」
 覚えている。
 ビヤト、シダ、ミユウ、他の、仲間だと思っていた皆が。
 私に刃を向けて「あきらめろ」と囁いた。
 違う。私は土人形なんかじゃない。まだ生きている。
「どうすればいい、土人形は、砕いて依り代を壊せばいいのか」
「依り代が残っていれば、何度でも傀儡を造りなおせると聞いている。火をつけて灰になるまで焼くしかない。それが確実だ」
 体に火をつけて、灰になるまで焼き払う。
 本気で、それを言っているのか。
 今まで、人が死ぬことは、刻が来れば日が沈むこと、夜の月の満ち欠けと同じくらいに自然なことだと感じていた。
 それなのに。
 自分が自分でないものに換えられて、そして、信じていた同胞から手にかけられて葬られるなど、想像したこともなかった。
 消えてしまいたくない。
 いやだ。
 いやだいやだいやだ。
「コクガ……私、死にたくないよ、生きていたい、生きていたいよ……」
 コクガ。
 そうだ、あのとき、私は。

 紅い花が一面に咲いていた。
 幻想の中の緋色の野原。
 まるで血の海みたいな。

 その一箇所だけ、なぜか花の色が他の曼珠沙華と違っていた。
 濁った泥のような、黒ずんだ赤色。
 燃え尽きた夕陽のあとの、闇が滲む赤。


「覚えていろ。この場所のことを。必ず助けに行くから」


 口の中に、血の味が満ちていた。
 そして私の体を深々と貫く、刃。

 あとは、切れ切れに頭の中に浮かんでくるのは。
 「おいで」と、差し伸べられた手。
 あの御方の、シュエン様の、私に向けられた微笑。
 閃く緋色、舞い散る金色の火の粉。  
 絵空事なのは、一体、どちらだ。

 
 空に浮かぶのは、欠けた月。月の無い夜から続いている、切れ切れの幻が、今の私を支配している。
「そんなはずない・・・・私は、あの御方に助け出されて、今私が生きているのはそのおかげだから、この傷がある限り、私は」
 息が詰まるような心地がした。どうして、どうして、これだけの言葉を吐き出すことが、こんなに苦しくて胸が軋むのか。
 コクガが、無慈悲に感情を殺した修羅の眼をしていたくせに。一変して、主を見失った迷い犬のような目をして私を見るものだから。私は酷く動揺してしまっていた。
 風を裂く、細く響く朱笛の音色がする。
 行かなくては。あの御方のために行かなくては。 
 でないと私、私は。
 自分の生きている意味がわからなくて、この場で壊れてしまう。
 火傷の傷跡の、痛みが消えない。
 この痛みを疑ってしまっては、私は息ができなくなる。

「リュキ、その傷は、俺がつけたものだ!
 もしも、覚えているのなら・・・・・・戻ってくることができるのなら、必ずここで待っているから」

 短刀を、受け取ったまま持ってきてしまった。
 手の窪みにぴたりと合う、柄の形をしていた。
 この手に馴染む形が、悪夢のように思えた。





「リュキ、あの刀は、今もお前が持っているか」
 土人形が、影のように夜空の下で蠢く。
 シュエン様の笛の音に導かれて、式神を憑依させているのだ。
 そのはずだ。
「リュキ、どこへ行く」
「少しだけ……確かめたいことがあります」
 陥落した城の焼跡がある。
 曼珠沙華が、不気味な色で咲くのもこの辺り。
 少し土を掘り返すと、奇怪な骨のようなものが溢れてくる。
 明らかに人骨とは違う、何の獣なのかわからないような形のものもある。
 この周辺は、呪われている。そうに違いない。
「百鬼の魔物の呪力か……」




【五】


 灯籠の火が揺らめいている。
 まるで、赤い蝶の羽。
 おもむろに、自分の髪からすっと簪を引き抜く。
 銀色の髪飾り。雫の形をした螺鈿飾りが幾つも下がっていて、振ると、ちりりと音を鳴らす。
 それを・・・・・・灯籠の中の火に翳してみる。
 炙られた銀の枝は、指先ほどの赤く閃く炎の先で、じわりと銀の鍍金を黒く焦がし、輝く。飴のようだ。
 その飴色に炙られた火箸のような簪を、ゆっくりと自分の頬へ――。
「巡留様、何をなさっておいでなのです」
 黒い胴丸を身に着けた従者が、火簪を持つ手を止めた。
 すぐさま手に咲く赤い花を奪い取る。
「ただ待ち続けることが苦痛なのです。あのお方はまだ、私のもとへ会いにきてくださらない」
 月が美しく輝いている。
 丸い格子窓に夜露が翳る。
 その円なる月の下では、今も、数え切れぬほどの骸が土に伏しているだろう。
 獣の遠吠えが聞こえる。
 腐りかけた死肉を喰いあさるために、牙を持った獣が夜な夜な徘徊するのだ。

 この乱世は、およそ二百年の間続いているという。
 統治していた姫神王を、権力に欲をかいた弟将軍が弑逆したために、殺された姫神が呪力を持って納めていた百鬼の魔物が、地上に溢れかえり、人心は乱れて、人と人同士が殺しあう世の中に変わり果てたのだと、歴史を伝える高僧は説いて語っている。

「城を焼いてしまえばいいのです。堀に囲まれた水路がある。そこから逃げましょう」
「先に捕らわれていた者達はどうなる。奴らは檻の中にいる。逃げ場が無い」
「敵の手に落ちた時点で、もう彼らの運命は尽きているのです。諦めましょう。すでに死んだ者達です」

 死した体は異形の怪物と変化する。
 こんな百鬼の魔物の呪力など、なければいいのにと思う。
 月明かりの下で曼珠沙華の花が咲く。
 その花の下で、小さな蜘蛛がそっと潜んで動いている。
 露に濡れて光る、細い細い糸。
 朽ちて散らばる羽、食い殺された蝶の破片。

 ああ。生きることとは。
 なんて無力な。


「屍を使った、土人形? 何なのそれは」
 シュエン様に仰せられて、姫君の傍にしばらく侍ることになった。
父である先代の領主亡きあとに、まだ幼いままで家督を譲られた女領主。
 彼女もまた、百鬼の魔物の一つを封じたものを持っている。
 その力があるがゆえに、領主として土地を持つことができる。
 土地の奪い合い、領土の争いは、百鬼の魔物の住処を広げることでもある。
「いえ。シュエン様がそのようなものを使っていると聞いたので……
 姫様ならご存知かと思っていたのですが、申訳ございません」
 堀を巡らせた水路がある。堅固な石壁に囲まれて、深く沈んだ闇のように静かに水流が流れている。
 その石壁を抜けたところは、城の地下牢へと繋がっている。
 多くの屍が、鎖に繋がれたまま保管されている。
 あれを土人形にするのだ。







ぽたり、ぽたり。
雫が滴る音が響いていた。

「ミユウが、帰ってこないんだ……」
「俺達の仲間が、一人、消えてしまって戻らない。お前なら知っているんじゃないか」

「なぜ、私なら知っていると思うんだ。そんなもの、知るはずがない」
「あの男の操る土人形に追われていたんだ」








 嘘だ。
 そんなこと、信じられるものか。
 私は……。
「どうした、リュキ、そんなに険しい顔をして」
「いいえ……」
 微笑みかけるシュエン様の横顔が、揺らめく灯火の明かりに照らされている。
 ふと、違和感を覚えた。
 何かが足りない。
「シュエン様・・・・・? 頬の傷痕が消えているようにお見受けします。それは一体、どうなさったのですか・・・・・・」
 ゆらりと。
 橙色の火が揺れる。
驚いたように目を見開いて、私の方を見ながら瞬きを繰り返していた。 そして、自らの手でゆっくりと右の頬を撫でる。
「そうか・・・・・・」
 低く穏やかな声音。ほんの少しの憂いを含む。
 その笑みを浮かべた口元が。
「お前は気づいてしまったか」
 火の粉が爆ぜる様にも似ていた。
 狂気。
 穏やかな笑みは、一瞬にして覆った。
 刹那、口元を塞がれて喉元を締め上げられる、激しい痛み。
「あ・・・・・う」
「この印が見えなくなっているということは、解けかかっているな。私のかけた傀儡の術が。一体どこで綻びができてしまったのか。まあ、いい」
 凄まじい力。
 獲物を狩る獣の爪にかかったような。
 喉首を押さえつけられて、必死に抗うも、到底力が及ばない。
 右腕が砕けるような激しい痛みが疾った。シュエン様の持つ懐剣が、私の腕を貫いて、土壁に縫いとめている。
 骨が軋むような激痛だった。
 痛い。
 痛い痛い痛い。
 そうだ。腕と肩の傷は今でも鮮明な痛みを覚える。
 なのに、なぜ。
 私の首から下の体が、まともな人間として機能していないのか。
 まさか、この痛みさえ偽物だというのか。
「どうして・・・・・・」
 血の雫の、紅い花が咲く。
 まだ、信じられない。
 目の前のものが。今、自分に起こったことが。そしてこの痛みが。
 何を現実として認めればいいのかがわからない。
 できることなら、何も信じたくなかった。
「お前の手腕が、惜しいと思ったからだよ。リュキ。
 私の知る限りでは、ハヤザの手の者の中で、お前は特に優れて美しい剣戯を操っていた。心の無い土人形では、とてもあんな洗練された闘い方はできないだろう。お前を容易く殺して、あの剣捌きが消えてしまうのは、少々惜しいと思われたのでね。お前を生かしたまま、手元に置けたらと考えたのだよ」
 そんなはずはない。
 信じたくはない。
 今、心の中に二人の自分が存在していた。
 互いに互いを否定しあって、殺しあっている心がある。
 一人は、この目の前の男を、生涯の忠誠を誓った主と敬う自分と。
 一人は・・・・・・・・・・・・

 自分の心を

    ことごとく打ち砕いた張本人だと。


 紅の花が散る


  痛い

   痛い

 痛い 痛い痛い

 許せない。
 許すものか。




 ああ、そういうことか。
 
 私は最初から。



 壊されていた・・・・・・。



「霧万、こいつは少しばかり時間をかけたほうがよさそうだ。籠にでも入れておいてくれ」
「それはそれは。ご面倒なことで」
「お前のように、自らの意思でついてきた者とは多少異なるようだな。少し仕込みが足りなかったようだ」
 傍らに侍っていた霧万が、歪んだ笑みを浮かべていた。
「シュエン様も好き者であることだ。何もこのハヤザの女一匹、こだわらなくてもいいでしょうに」
 手足が痺れたように動かなくなっている私を、物でも扱うかのように無造作に、髪を掴んで引きずる。
「不細工な土の屍ばかり従えるのは、どうも飽きたもので。できることなら見目のいいものも置いておきたい。そのために、生きた人間も傀儡できるように式神を集めているところだ。私の百鬼の魔物の力が極まれば、伝承のような、かつての媛神王のように、唯一の統治も可能になる」 
 紫の錦が翻る。
 紅い灯火の影を映しながら。
 あの御方が、哂っていた。
「野鼠ばかりで目障りだ。この土地の百鬼の魔物は既に手に入れた。もう、焼き払っても問題ないだろう。鼠も蜘蛛も梟も、一度に閉じ込めて片付けてしまえばいい」 



 リュキ、必ず助けに行く、待ってろ。
 もう無理だよ、一度刺されたら、もうあの男の呪術は自分では解けないんだ・・・・・・。
 絶対に、お前を土人形になんてさせてたまるか。何としてでも、助け出すから、だから。
 きっと私、もう壊れるしかできないの。・・・・・・コクガ、もし私が屍になって、あいつに傀儡の人形にされていたら。
 あなただけは、私に気づいてほしい。
 この傷跡が、唯一、私が私である証だから。

 痛い。
 痛い痛い痛い痛い。

「愚かな、人」

 石牢の中に、静かに囁く声がした。

「巡留様・・・・・」

 幼い女領主は、そっと私の腕を縛める鎖を開錠して解いた。

「どうして、あなたがここに」
「そんなの、理由はたった一つだけ。あのお方は、初めから、わたくしのものよ。あなたのような人にはあの人の心を譲ったりしないわ。だから、さっさとここから消えてしまいなさい」
 螺鈿の簪を、自分の髪から引き抜いて、私の手へと渡した。
「私の記憶の一部を、あの御方は、あなたを操るために入れ替えていたはずよ。だから、もう返してもらうわ。あなたが自分のものだと思ってる、あの御方に助けられた記憶は、本来は私のものだから」
 するりと、艶やかな絹をわずかに滑らせると、丸くて華奢な肩に……私が持つ火傷の跡と、ほとんど似たような凄まじく爛れた皮膚が現れたことに私は息を呑んだ。
「巡留様・・・・、いいえ、領主殿、一つだけ問います。
 あなたももしかして、あの男に造られた、土人形なのですか・・・・・」
「一つ、あなたにお伝えして差し上げましょう。この城は、今宵、陥落します」






【六】



 夜空を焦がす、紅の焔柱。


 紅い、紅い花が咲く。
 色の違う曼珠沙華の広がる場所に来た。
 短刀を土に突き刺して、地面を掘り返す。
 骨の欠片がいくつか出てきた。
 奇怪な骨が出るという噂があったが、なんてことはない。
 どれもただ、ばらばらに砕けた人の亡骸の成れの果てだ。
 掘り返した土の穴に、螺鈿細工の髪飾りを置く。
 そして、短刀で深く突き刺した。
 ぱきん、と。硝子が割れる時のような涼やかな音を立てて、螺鈿細工は粉々に砕け散った。
 巡留姫が最期に預けた髪飾りだ。
 あの少女は、女領主になることなんて望んでいなかった。
 ただ、流されるしかできなかったのだろう。
 そして私は。
 右腕がもう、まともに動かない。
 自分が生きているのか死んでいるのか、それすらもよくわからない。
ただ、どうしても苦しかった。
 もうこの傷が痛むはずなんてないのに。
 その痛みさえ、欺かれていた幻であるはずなのに。
 どうしても。
 どうしても。
 痛くてたまらないんだ。
 この痛みが消えてしまえば、それはもう、私自身の消滅だと、自ずから悟ってしまっているのだから。

 痛い。
 痛い痛い痛い痛い。

「痛い・・・・」

 いたい。
 痛い
 居たい

 行きたい

 生きたい。

 どうして、こんなに苦しいのに。
 生きていたいと思ってしまうんだろう。
 この痛みが、ずっと、私の心に何かを叫び続けている。
 忘れるな、忘れるなと。

 何を、忘れるなというの?

 ――それは、私が私であるという証明。
 ――生きているという標。

 ならば、戻らなくては。
 そうするしかできないのだから。

 たとえ、どんなに自分自身が壊れてしまっていても。
 手遅れになったことばかりだとしても。


 だって、生きているから。


「コクガ・・・・・・・」


 私は、ここにいるよ。
 どうか。どうか、もう一度だけ。
 全てが消えてしまう前に。

 どうか私を、許して。





 水堀に沿って、下流へと下っていく。
 点々と散らばる屍が、泥のように崩れて積み重なっていた。
 血の匂いと人肉の腐臭。
 時折、鼠の蠢くように見える影は、百鬼の魔物の雑魚が、腐肉を喰らいに土の底から涌いて出ているのだろう。
 朽ちた人間の血をすすって、魔物はしぶとく、地上に地下に、住処を持って蔓延っている。
 倒れている人の姿があった。
 若い男の体躯をしていた。その背中の太刀に見覚えがあった。
 ああ、見つけた。
 なぜか、きっと見つけられると感じていた自分がいた。
 この屍が散乱する中で、うまく遭遇できるかどうかなど、奇跡に等しいだろうに。
 でも、そう思っていた。
 なぜなら、そんな屍が散らばっているこの場所で、以前、この男は私のことをしかと見つけていたのだから。
 だから、私が見つけられないはずがない。絶対に、見つけ出さなくてはならなかった。
 臥している彼の元にそっと近寄る。泥と血にまみれていて、生きているのかどうかは触れてみないとわからないくらいだった。だけど、首筋に触れて、脈がまだ動いていることを確かめた。
 土人形であったとしても、こんなに酷い姿にはならないかもしれない。
 彼の体を抱えて、腕を私の肩にかけて、引きずるようにして下流へと歩く。
 水の流れがたどり着く場所へ。

 紅蓮の火柱の下では、今、無数の屍が燃えている。








 ようやく、屍の無い水の澄んだ場所へとたどり着いた。
 土気色の顔をしているが、それでもまだ、息をしている。
 少しだけ、口元に水を掬って流しこんだ。
 しばらく待つと、ぼんやりと瞬きを繰り返して、ハヤザは意識を取り戻した。
 まだ混濁している意識の中で、体は動かさずに、わずかに瞼を持ち上げた目の、焦点の合わない視線が彷徨っている。
 炭の匂いを含んだ空気が満ちている。
 焼け落ちた城の、火の粉と煤が、風の流れに乗ってここまで届いている。
「城が、焼けたのか・・・・・・」
 自分の太刀を杖のように地面に突いて、ゆるゆるとハヤザは半身を起こそうとする。その腕さえ、ろくに力が入っていない。腕にも、顔にも、裂けた衣服にも、乾いた血糊が貼り付いていた。自分の流した血なのか、それとも返り血であるのかも判別しがたいほどだ。
「酷いものだった・・・・・・ここに来るまで、死体の山ばかりだった。土を掘り返すと、骨の破片ばかり出てくる。城の周りは魔物の骨が沢山埋もれてくると聞いていたけれども、そんなことはなかったわ。人の亡骸しか見当たらない」
「そりゃあそうだ。結局、殺しあってるのは人間同士ばかりだってことだよ。百鬼の魔物を操れる人間なんて、ほんの一部にすぎないし。勝手に動いてる魔物は、互いを食い合うことも多いからな。・・・・・・・それで、今の俺みたいな死に損ないを拾ってきて、お前は何をするつもりなんだ」
 掠れた声をして、嘲笑を込めた声音で、搾り出すように吐き捨てている。
 宵闇の底に浮かび上がる紅蓮を眺めていた。地面に横たえたハヤザに背を向けて。
 向き合うことは、刃で斬られることよりも、よっぽど苦痛を伴うかもしれない。わかっている。
 だけど、名前を呼ばなくてはならない。
「・・・・・・・・コクガ」
 やっと。やっと、取り戻した。
 ほんの一言、名前を呼んだだけなのに。
 途端に、虚勢を張った笑みを浮かべていたコクガの表情が強張っていた。
 瞬きを忘れて、じっと、私のことを射止めるような視線で見つめている。
 それ以上私は、何も言葉を紡ぐことはできなかった。
 何を言えばいいのか全くわからない。
 唇を噛み締めて、静かに、コクガの傍らで俯いていた。
 右腕からは、まだ出血が止まらない。この傷はまだ、いかにも生々しく痛みと紅い印を伴っているのに。
 どうして私は、こんなに手遅れになるほどに壊れてしまったのか。
 壊してしまったものはもう、元には戻らない。余りにも、痛すぎる。
 血の滴る私の腕に、コクガの手が触れて、そして強く掴む。
 そして次の瞬間、唇にざらりとした濡れたものが触れていた。
「リュキ」
 まだ血と泥も拭われてないままの、コクガの両腕が、強く私を抱きしめていた。
 もう一度、唇に、乾いたコクガの唇が触れる。
 ひび割れた唇は、鉄の味がした。
「やっと・・・・・・・やっと、戻ってきた」
 コクガの声音が、静かな水面に小石を投げ込むかのように、波紋を描きながら、今まで封じられていたものを揺り起こす。

 コクガ、私……死にたくない。

 お願い 私に傷をつけてほしい。絶対に消えないような傷を。
 たとえ心を壊されたとしても。
 この傷跡がある限り、必ず思い出せるはず。
 覚えていて。この痛みを。

 きっと、取り戻すから。


 ・・・・・・・・・・・・そう信じていたのに。
 私は、こんなにも簡単に、何もかも忘れ去って、あの男の傀儡人形になって動いていたのか。
「あの男が許せなかった。許せるものか。大切な仲間を殺して屍人形にするばかりか、モノのように操って手駒にして弄んで、絶対に俺がこの手で殺してやると、そう思っていた」
 私は、黙ってそれを聞きながら俯いていた。
 言葉には出すまい。私は、そんな憎い敵を。愛しい主君だと信じ込んで、あいつの言われるがまに刃を振るっていたのだ。
 どれほど悔やんでも、その過ちは取り消せるものではない。
「お前のことは、もう諦めろと、仲間達には散々言われた。
 仮に、記憶を取り戻して正気に返ったとしても、リュキが自分のしたことを思い出すときには、死ぬより辛い思いをして、きっと壊れてしまうだろうと。
 それだったら、あんな外道の操り人形にされているより、俺自身の手でお前を眠らせてやりたいと思っていた」
 淡々と、感情を殺した声で紡ぐ言葉には。抑えきれない激情が篭っていて。
 その溢れる悲痛さが、私を更に突き刺していた。
「でも、できやしなかった・・・・・・・。どうか正気を取り戻してほしいと、お前のことを取り戻したいと、ずっと思っていた。リュキを殺すことなんて、俺にはできない。生きていてほしかったんだよ」
「もう無理だよ、コクガ」
 私は静かに首を振るしかできない。そっと、自分の頭をハヤザの胸に寄せる。心地いい温もりがそこにあった。だけどもう、私はそちら側に戻ることはできないんだよ。私の体には傷跡がある。取り返しのつかない傷が。
「私はもう・・・・・あなた達に、皆に刃を向けたことは、取り返しがつかない。ちゃんと私は私としての意識も持っていた。それなのに、私は何も気づかずに、自分の手で、皆を殺して」
 紡ぐ言葉が、震えた。
 それが紛れも無い事実であり、現実だからだ。
「大切な人や、愛しい人まで、殺そうとしていた。それなのに、私は本当に生きていると言えるの」
「そんなこと、かまうものか。生きていろ。お前は生きていろ、リュキ。誰が死のうが、誰を殺そうが関係ない。生きていれば、生き残った者の勝ちだ。自分のために他の誰かの命を奪うのが当然になってる世で、どうして自分が生きることに躊躇う必要があるんだよ。どんな汚いことをやったって、どんなに生きてることを悔やんだって、それから先に、一度でも、一度でも、生きててよかったって思える何かがあれば、それで生き残った者の勝ちなんだよ」 

 紅の炎が揺らいでいた。
 まるで赤い華のように。

 しにたくない。
 いきていたい。

 火の粉の爆ぜる音の中。
 そっと滴る雫のような、静かな声音。

「一緒に行こう、リュキ」
 紅い曼珠沙華の花が咲き並んでいる。
「これでも私、生きているって言えるのかな・・・・」 
 衣を一枚剥ぎ取れば、曝け出されるのは、爛れた火傷の残る肌。硬くこごった異質な感触は、歪な鱗のようにも見える。
「傷が痛むのは、生きている証だから、だからまだ、諦めなくていい」 
 人影が見えた。大きな太刀を担いだ、負傷した衛士のように見えた。
「なんだ、生き残りがいるのかと思ったら、てめぇらか」
 嘲る口調で吐き捨てて、こちらを一瞥しているのは、霧万の姿だった。
 人形のように腕に抱えているのは、巡留姫の亡骸だった。――いや、その体が屍であるのかまだ生きているのか、あるいは人形であるのか、一見だけで判断することはできなかった。
「どうして、あなたがここに」
「俺はあの領主についていくしかねぇからな。わざわざ侵略してきた敵国の王にすがってまでも、力を得ようと思うことが、そんなに馬鹿げているか」
 

欠けた月が、空に浮かんでいた消えてしまいそうな、細い細い月だった。
霧万が踏みしめた足跡に、ゆらりと陽炎のような、曼珠沙華の花が浮かぶのを見た。
しかしそれは一瞬の幻で、すぐに茶色く枯れて、泥のように溶けて土に落ち、消える。
紅い花が咲くところは、地面の下に潜む、百鬼の魔物と繋がっていると。そんな話を聞いたのを思い出した。
「逃げるか死ぬかで、逃げるほうを選ぶことが必ずしも負けではないように、体が腐ってでも生きようとすることは、必ずしも間違いじゃない。
 体が生きていても、生きる意味を失うこともあれば、心さえ残っていれば、それでもこの世にしがみついていようとする者もある。
 人間も、まるで化物みたいだよな」
 コクガがそっと、呟いていた。
「それでいいんだよ、俺達は」







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