『水晶と金の谷』
◇1◇
私の暮らしている村は、山中に段々畑の連なる中にあって、羊や家畜を飼って暮らしていた。
「トプカの谷には、昔、人が住んでいて、黄金の遺跡があったんだって」
たまに、おしゃべり好きな子供達が、そんな噂話をにぎやかに話しているのを聞くことがあった。
雲雀がさえずるような声が、私の耳に入ってくる。
「すごいねぇ、黄金って、もし見つかったらとてもお金持ちになれるの?」
「綺麗なお洋服も、髪飾りも、美味しいものも街で沢山買ったりできるわよ」
「へぇ、ガラス石みたいに、銀貨と交換できるのかな」
「ガラス石を百個集めたよりも、沢山いろんなものが買えるのよ」
私は水汲みのための桶を運びながら、山間の景色をふと眺めてみた。
白く、おぼろに霞む雲が、高い山が連なる間に流れている。その合間の谷は、影になっていて空の黒い落とし穴か何かのように見えていた。
あの場所に何があるんだろう。そういうふうに思わせてしまうのも、無理はないかもしれない。
開きかかった箱があると、どうしても中身が見たくなってしまうものだ。
「こらこらお前達、小屋の方の、驢馬の餌やりはもう終わったのか。おしゃべりは仕事終わってからにしろ」
羊を連れているおじさんが、集まって話している子供達を見つけて注意していた。
それすらも楽しそうに返事をして、休んでいた子達は笑いながら仕事に戻っていく。
「まったく。そんな迷信の話ばかりして。いいか。トプカの谷には、岩蛇の化物がいて、迷い込むと、地面の下の世界に連れて行かれて、食われてしまうぞ」
皆、知らない。
私は本当は、あの谷から来た子供だ。
ぼんやりと眺めていると、羊の世話をしていたテオトが私のところへやってきた。
「トネリアも、あの谷に行ってみたい?」
私は小さく笑って、首を横に振った。
「別に。それほど興味ないし」
私の故郷は、昔、滅びてしまったらしい。
自分で覚えているわけじゃない。けど、兄が私にそう語ってくれた。
◇
「トネリアが赤ん坊の時に、一緒に渡された地図が残っているんだよ」
そう言って兄さんは、私に、古ぼけた地図を見せてくれた。
「黄金が眠るという古い言い伝えがあって、その宝を狙う者達に侵略されたんだってさ」
山脈の合間にある険しい谷。
この地図に示されているような辺境の地に、人が住んでいたなんて思えない。
まるで作り話みたいだ。
私は話を聞きながら、ただ黙々と機を織っていた。
物心ついた頃から手先が器用で、複雑な布も難なく織ることができた。
兄が言うには、それも私の血筋なのだとのことだけど。
「トネリア、いつか、お前が生まれた故郷へ連れて行くよ」
いつか、私にそう言ってくれていた。
「何もいらないわよ。兄さんがいてくれたなら」
無くなってしまったものなんて、今は知らない。
覚えてもいない、生まれた頃のことなんて、どうでもいい。
今のこの毎日があればいい。
「トネリアが大人になったら、いつか二人で、ここに行ってみたいと思ってたんだ」
そんな話が繰り返される合間に、私はまた一枚、織物を仕上げてしまっていた。
麻の布に、複雑に絡み合う紋様。
上着は今は足りているから、これは肩掛けにしよう。
「兄さんは、隠された黄金の遺跡を探したいの?」
私はわざと、からかうような調子で返事をした。
だって、今聞いた感じでは、兄さんの話はまるで冒険小説の一節のようだ。
「黄金よりももっと素晴らしいものが見つかるかもしれないよ」
兄さんは悪びれる様子もなく、微笑んで返す。
冗談でこの話を終わってくれればいいのに、純朴なのか、それともわざとなのか。
率直でそれでいて真面目に話している。
そんな顔で笑うのはずるい。叱られるよりも、悲しい顔をされるよりも、私はこの兄の言うことに、何も逆らえなくなってしまう。
「兄さんがそう言うなら、いいよ。私も一緒に行っても」
仕事の終わった機織を片付けながら、できるだけ、何でもないようなふうで答えていた。
兄さんが喜んでくれるなら、何だってしよう。どこへでもついていく。
たとえ、自分の言いたいことが何も言えなくなってしまっても。
私が兄のことを、一つ屋根の下で暮らす家族以上に特別にだと思っていることも。
子供の頃からそれをずっと言えずに隠していることも。
そう、特に、何も問題のないことだ。
こんな複雑な模様の布を折れるくらいに、周りからは、とても器用だと言われる私だけど、実はそれほど器用でもない。
◇2◇
「正直なところ、ケツァルは信用しないほうがいいと思うんだ、トネリア」
幼い頃から親しんでいる親友のテオトが、ひそかにそんなことを言ってきたことがある。
「どうして? 私にとっては、誰よりも優しい兄さんなのに・・・・・・」
「君にとってはそうなのかもしれないけど・・・トネリアの前では隠しているんだろうな。あいつ、ずっと昔から、谷のこと調べてるもの。僕が覚えのある限りでは。
本当にトネリアのこと大事に思ってるのなら、触れずにそっとしておくほうが普通じゃないか?
君の生まれがどこだったかなんて関係ない。君はこの村で育って、僕達の同郷の仲間だよ。
それなのに、どうしてトネリアの、昔侵略されて無くなった故郷のことなんか掘り返して調べる必要があるんだよ。
トネリアは辛くないの?」
それはやっぱり気にしているところだった。まるで私が、異郷の生まれだということを、くり返しくり返し教えられているような気がした。
家族として認められていないような気がした。
辛いかどうかと聞かれると、よくわからない。
でも、兄さんが好きだった。
いつも私のそばで笑っていてほしかった。
「もしトネリア、谷に行って、ケツァルに置き去りにされてきたりなんかしたら」
「そんなこと・・・・・・ないよ」
「でもその時は、僕が助けにくるからね」
◇3◇
地図に書かれた場所は、綺麗な滝が流れ落ちている場所だった。
「この谷は水晶が取れるそうだよ」
崖には何か、不思議な絵が描かれている。
私が生まれたという故郷に、古くから住んでいた民族とつながるものらしい。
正直なところ、恐ろしかった。
「ねぇ・・・兄さん、やっぱり、帰りましょう。何か危険なものがあるかもしれないのに」
「大丈夫だよ。俺がついてるから」
岩道を見つけて、谷の底のほうへと降りていく。
水が流れ落ちる音を聞きながら、崖の壁に沿って歩いていく。
燦々と照る太陽の下の、光と影の重なる舞台。
そうして、岩と岩が重なり合っているところを歩き続けると。
大きな石の扉があった。自然にできたものではない。人の手で故意に作られたものだった。それも、ずっとずっと昔からあるものだろうとわかる。
ここが遺跡だというのは本当だったんだ。
三つ並んだ水晶の飾りがある。石はぴったりと扉にはめ込まれていて、外れない。
この形・・・見覚えがある。
「私が持っている髪飾りについている、石の形と似ている・・・・・」
驚愕する私の横で、兄さんが微笑んでいた。
私の髪飾りは、子供の頃からずっと持っていたものだ。顔も名前も全然覚えていないような私の親が持っていたものだと、曖昧に聞いたことがあった。
「この石の飾りが、道しるべになっているみたいだね。すごいよトネリア。君がいてくれれば、きっと迷わずに進んでいける。さぁ、行こう」
兄さんは私の手を取って、石の扉の隙間を潜って、洞窟のように暗く続く通路へと足を踏み入れていく。
だめだ。そっちに入って行っては。
閉じ込められてしまう。
ここは、危険だ。
赤子の頃の記憶?
そんなはずはない。今まで考えたこともなかった。
だけどこの、濡れたような冷たい空気が。わずかな足音が反響する空間が。
目の前に覆いかぶさるような薄暗さが。
私の脳裏に、奇妙な警鐘音をかき鳴らしている。
きっと私は、昔、ここに来たことがあるはずだ。
「この岩壁に彫られている模様・・・トネリアが織っている布の紋様だ。あの複雑な模様はトネリアしか作れないものだよ。
不思議だね。故郷を離れたのは、ほんの赤子の頃のことで、何も覚えていないはずだろうに。お前が生まれた時から、魂に刻み込まれているものなのかもしれない」
三つに並んだ水晶。
絡み合った蔓の紋様。
幾何学的に組み合わさった形の扉。
思い浮かべていると、手のひらに冷たい汗が滲んでくる。
「ねぇ、兄さんは、この遺跡の何を知っているの?」
暗闇が嫌いだった。だけど私は、不思議と人より夜目が利く。
通常の人間なら立ち止まってしまうようなところでも、どこに何があるか見えてしまう。
私はそんな自分が気味が悪かった。
見たくないものまで全部見えてしまう気がする。
「トネリアは拾われ子だったからな。いつも控えめすぎるんだよ。もっと自分のことを誇っていいんだよ。
お前はもっと特別なんだって、証明してやりたいんだ。人にはできないようなことができる。誰も持っていないようなものを持っているんだよ」
兄さんがそう言って微笑んで、私の手をギュッと握る。指先から包み込むような熱が伝わってくる。
私、この手があれば他に何もいらないのに。特別なんかじゃなくていいのよ。
ケツァル兄さんがいてくれたから、私、ずっと独りじゃなかったのよ。
ただそれだけ。私はたいした人間じゃないよ。
「水晶を持ってたら、トネリアの髪飾りを作ってもらおう。街に行って交換できたら・・・・・」
不意に、気味の悪い羽音が響いた。空気を切り裂くような、甲高い鳴き声がする。
叩きつけるような羽音で、何かが襲いかかってくる。
「きゃあっ!」
兄さんが、持っていたナイフで空中で叩き落とした。
「今の何・・・・・」
「コウモリだな、気をつけろ、まだいる」
礫が降り注ぐように、黒い塊のようなものが襲いかかってくる。
一斉に耳を塞ぐような、けたたましい羽音がする。
「変だな、コウモリがこんなふうに人を襲うなんて」
「兄さん」
「離れて隠れていろ、トネリア」
心臓が縮み上がる心地がする。
おかしい。コウモリはほとんど、私ではなく兄さんの方に襲いかかる。
ガラガラと岩が崩れる音。
いつの間にか、足場が崩れてたんだ。染み出ていた湧水が、集まって流れている水脈。
「うわぁっ!!」
「兄さん!!」
洞窟の中の暗い岩場は、一歩足を踏み外せば、急な崖になっている。轟くような水の音がする。滝の流れと繋がっている水流がこの下にあるに違いない。
闇に吸い込まれる叫び声。伸ばした手は虚しく空を掴む。
反響して響く水の流れる音。
身を乗り出して、手を伸ばそうとした、そのとき。
不意に暗闇の中で、後ろから誰かに腕をつかまれた。
「トネリア」
別の声が突如聞こえて、私は肩がすくみ上がった。
兄さんじゃない。誰の声・・・・・。
「こっちだよ。無事でよかった」
「テオト・・・・・・どうしてあなたが、ここにいるの」
「トネリアが、ケツァルと二人で谷に行くのを見た。助けに来たんだよ。この場所は危ない、俺と一緒に来て。ここから逃げよう」
逃げる? 何を言っているの?
兄さんがまだ、あの場所にいるのに。助けなきゃ、早く。
お願い、兄さん、早く・・・・・・。
「あれはきっと、侵入者を防ぐための罠なんだよ。通ると岩が崩れて、足場が落ちるようになっていた。トネリアが無事でよかった。
これ以上進んじゃいけない。こんな怖い場所が沢山あるんだ。迂闊に入り込んじゃいけないところなんだよ、ここは」
轟々と流れる水の音がする。あの下に落ちたの、まさか。
冷たい空気に、背筋が凍る。
「トネリア、お願いだよ。僕の言うことを信じて・・・・・。
君も、最初にここに入った時に、何か凄く、怖いものを感じただろう。なのにそれを無視して入ってくるから、ケツァルはここでは侵入者だ。
無事にこの場所から出ることができるのは、この故郷を知っている僕と君だけだよ」
故郷、という言葉に違和感を覚えた。テオトが何を言おうとしているのかわからなかった。
「そうだよ。僕もトネリアと同じだ。本当は僕も、昔ここで生まれて、故郷をなくしてあの村に来た。ずっと隠していたんだ・・・・」
そして、ひと振りの小さなナイフを上着の内から取り出して、私に見せた。
革の鞘に納められている、ガラス石のナイフだ。
柄の部分を見ると、三つ並んだ石の飾りがはめ込まれている。絡み合った蔓の模様も見える。私の知っているものとは多少違うけれども・・・似ていることは間違いない。
「本当はここには来たくなかった。でも、ケツァルみたいに、この谷の宝を探しに来ようなんて言い出す輩がきっといると思ってた。いつかこういうことになるんじゃないかと思ってた」
三つ並んだ水晶。
この場所に何があるんだろう。
私は何も知らない。
「テオトは・・・・・・この場所が何なのか、知っているの?」
「僕もよく知らない。でも、黄金の遺跡と呼ばれていたそうなんだ」
兄さんはこの場所で何を探したかったんだろう。
私やっぱり、一人じゃ帰れない。
せめて、何のために自分がこんなところに来たのか、自分の目で見つけたい。
そう言ってテオトに伝えると、彼も顔をしかめながら頷いた。
「怖いけど、引き返す道が見えなくなってしまった。奥に進んだほうがいいみたいだ」
◇4◇
テオトが私に語ってくれる。
トプカ族の谷が荒らされたのは、十五年前のこと。
水晶と金が大量に取れるという噂で、度々、野盗が襲いに来ていたとの話。
そしてトプカ族は、その度に住む場所を転々と変えていた。
わずかな生き残りだけになった仲間を連れて、その男は村を訪ねてきた。
腕には生まれて間もない小さな赤子を抱いていた。
何処へ行くあてもない私達です。途中で飢えて倒れることになるやもしれません。
この子だけでも、ここで匿ってくださらないでしょうか。
織物や食料の交換で交流のあった村人は、赤子を引き取った。
その子供は、生まれた子供を亡くしたばかりの夫婦のもとへ引き取られた。
トプカの谷については、特に金が見つかったという話は聞かない。わずかばかりの水晶が拾えるばかりだ。
「テオトはどうしてそういうことを知っているの」
「調べたんだよ。自分がトプカ族だって知ってから。俺が村に引き取られたのが三つか四つぐらいのことで、トネリアよりも少し後だと思う」
細い洞窟の通路はますます暗くなっている。テオトはほんの小さなランプに明かりを灯して、私の手を取って進む。
もし、ほんの少し足を踏み外せば、兄さんのように足場が崩れて崖に落ちてしまうのだろうか。
振り返ると、背後は真っ暗で何も見えない。戻りたい。本当は助けに行きたいのに。
あれからどうなってしまったんだろう。どこかで無事でいてくれればいい。考えていると胸が苦しくなる。今はテオトと一緒に進むしかない。
橙色のわずかな炎の色に浮かび上がるように、両面の壁に彫られた模様が見える。入口のところで見た石の扉の模様よりも、更にくっきりとしていた。
岩の上を走る岩蛇のモチーフ。蛇と対するハチツグミ。
ハチツグミは水晶を巣に持ち帰ると言われ、岩蛇は金塊を食べて腹に溜め込むという。そんな話を聞いたことがある。
「ただのおとぎ話かもしれないけど・・・・・」
テオトが、レリーフを見渡してつぶやいていた。
岩に掘られた模様を確かめて、指でなぞる。
私にもわかる。これは、一種の謎かけだ。この絡み合う蔓の模様の中に、金をくわえた土蛇がたどり着く道筋が、図の中に隠されている。
「この場所に昔、一体何があって、どんな人達がこれを残したんだろうね」
ぽつりと囁いたテオトの声が。静まり返った暗闇の岩の壁の中に、吸い込まれていった。
頷くばかりで、私は何も言うことが思い浮かばなかった。
ここに足を踏み入れてから、ずっと夢を見ているようで。
「壊れてしまったものを元に戻すことはできないし、過ぎてしまった出来事は変えることができない。
僕達が見ることができるものは、今現在と、これから先の未来のことだけだよ」
「テオト・・・・・・この先にあるものを見てしまったら、もう村には戻らないつもりなの?」
「そうだな。やっぱり僕達は、他の人達とは違うんだってわかってしまうはずだよ。
だからきっと、昔、僕達を置き去りにして消えていったトプカの大人達は、この場所を捨てて、皆どこかへ消えてしまったんだ。
この場所に居続けることができなくても、でも、他の民族と一緒に暮らすことはできなかったんだよ。
岩蛇が、絶対に見つからない場所に巣を作るように。金塊の在り処を、誰にも知られることがないように生きてきたんだ。これからもそうなんだろうと思う」
「それでも私は・・・・・今までと同じように、暮らしていけたらいいなって思ってたよ」
テオトが、石の扉の前に立って、手を伸ばそうとした。
そのとき。
シュッと、蛇が滑るような音がすぐ近くで聞こえた。
それが、ナイフの刃がかすめた音だと気づいたのは、テオトが持っていたランプを落としたのを見たときだった。
黒い塊のような、人の形の影があった。
地面に落ちた灯火の色に、銀のナイフの色が紅く反射して光った。
見たことがある。このナイフを。
「トネリア、そこを動くな」
今まで聞いたことがないような、低くて冷たい声色をしていた。
わずかな紅い火の明かりに照らし出された横顔も、一瞬、見間違いではないかと思った。
でもそれは、間違いなく、兄さんの姿と声だった。
チッと舌打ちをする声。テオトが、地面に手をついて、顔面に突きつけられたナイフの刃を睨みつけている。
「あと少しでたどり着くところだったのに・・・・あの水流に落ちて、どうやってここまで先回りできたんだ」
「隠し通路を知っていたのが、お前だけだと思うなよ、テオト」
まるで、悪い夢を見ているようだ。
あの時、兄さんは確かに、私の目の前で水脈の下に落ちていった。
生きていてほしいと、あんなに苦しいほど思っていて、不安でたまらなかった。
それなのに。
これは一体。
何が起こっているの。
その兄さんが、平然として。
私をここまで、手を引いて連れてきてくれた、テオトに向かって。
銀の刃を突きつけている。
◇5◇
体が、凍りついたように動かない。
どうすればいいのかわからない。
「ケツァル、そんなことまで調べていたんだな・・・・。トネリアを道案内に利用しようとしていたんだと思っていたのに。俺が甘かったか。
さすが侵略者。そこまでして、俺達の仲間が昔生きていた場所を自分のものにしたいのかよ」
「俺達? お前の仲間というのは、誰のことだ。お前の味方なんか、この場所で誰もいないだろう。テオト、お前が僕を侵略者と呼ぶなら、それでもいい。確かにお前から見ればそうだろうな」
ドッ、という、鈍い音が響いた。耳を塞ぎたくなるような音だ。
地面を這っていたテオトが、兄さんに脇腹を蹴り飛ばされて、石の壁に体を叩きつけられ、まるで物みたいに転がってた。
「やめ・・・・・!」
テオトを助けようとして、手を伸ばそうとしたとき、まるで阻むように、私の前に兄さんが立っていた。
暗くて表情が見えない。
「やめろ、トネリア! ケツァルの言うことを聞いちゃいけない! 口先だけの綺麗事だよ!
トネリア、君のことは絶対に僕が護るから、お願いだよ、僕のことを信じて!」
「黙れ!!!」
ガキン!!
氷を砕くような、恐ろしい音がした。
兄さんの振り下ろした刃が、倒れたテオトの首のすぐ横の石に突き刺さっている。
一瞬、テオトを助けに駆け寄ろうとしたのに。
見えない杭に体を縫い止められているように、一歩も動くことができなかった。
目の前の光景が、ただただ信じられなくて。
叫ぶ声さえ、喉の奥で凍りついてしまったようだった。
「トネリア、お前はこいつから・・・・・・テオトから何を聞いていた」
低い、静かな声。
普段私に見せてくれていた、温和で優しい様子はどこにもない。苦々しい怒りとに満ちている。
「まさか、こいつが俺達のあとをつけてきていたなんて思わなかった・・・・。くそっ、こんな風に邪魔されることになるんだったら、もっと早くからこいつを」
倒れたテオトが、石畳の地面に転がったまま、動かない。
「やめて、お願い、テオトを殺さないで・・・・・・!」
震える声で、喉から絞り出すようにして叫んでいた。
地面に落ちた紅い灯火が、揺らめいて影を落としている。
その深い暗闇の中で見上げる兄さんの姿が、まるで恐ろしい悪魔の影のようで怖かった。
「お願い、もし兄さんが望むなら、私がわかる限り、遺跡の模様も道筋もたどって連れて行くから・・・・・
私は、遺跡に隠された黄金なんていらない、何もいらないのよ。ただ、兄さんの家族でいたかっただけなの・・・・・・!」
喘ぐように叫びながら、涙が溢れてきた。
自分が血のつながらない家族だというのは、子供の頃から知っていた。
でも。父も母もとても優しかったから、自分がどこからもらわれてきたのかということは何も言わなかった。
両親が共に亡くなってからは、兄さんだけが、温かい家族だった。
その優しさが偽物だなんて思いたくなかった。信じていたかった。
「蔓の紋様の・・・・岩蛇がたどり着く先は、きっと、その石の扉の先・・・・そこで終わりなの。ここがきっと終着点だよ。
何があるのかは私も知らない。
でも、全部兄さんにあげるよ。私、何もいらないよ。水晶も、髪飾りもいらない」
頬を伝う涙が止まらない。
「トネリア・・・・・・」
カツンと、一歩歩いてくる足音が近づく。
「トネリア、ごめんな、怖い思いをさせてしまった。
騙されるな。こいつは・・・・テオトは、俺の知る限りずっと前から、遺跡の財宝を手に入れることしか頭にない。
お前のことを利用しようとしていたのは、テオトのほうだ」
低い、静かな声。
紅い小さな灯火に照らされる、黒い影。
私はもう一度、瞬きを繰り返して、兄さんの姿を見上げた。
「きっとテオトは・・・・何かお前をうまく信じ込ませるようなことを言ったんだろうな。
テオトが恐らくトネリアと同郷から来て、預けられた子供なんだろうというのは薄々知っていた。
そう思うと、テオトとお前が一緒にこの谷の遺跡にやってくるのは、妙なことではないかもしれない。
でも俺は、自分でお前を、ここに連れて来てやりたかったんだ」
混乱と恐怖が徐々に私の内で治まって。
暗闇にも目が慣れてきた。
兄さんは、ナイフを持っている手を降ろして、動けずにうずくまっている私へと歩み寄ってきた。
そして、私の前で膝をついた。
静かに淡々と、語りかける兄さんの声と言葉。
苦々しく見えた表情は、むしろ悲しげに見えた。
「信じてくれなくてもいい・・・・・。でも必ずトネリアは、ここから無事に連れて帰る。
そうして、思っていてほしいんだ。トネリアの本当の故郷はここじゃない。
俺達がずっと一緒に暮らしてきた、あの村なんだって。一緒に帰って、そして、互いにただいまって言いたかった。
この家が、本当のお前の故郷だよって・・・・・・」
そうして語りかけていた兄さんの声が。
不意に途切れて、体が大きく傾いだ。
唇から漏れるのは、苦痛の呻き。
見間違いなんかではなかった。兄さんの背中越しに、一瞬、私の目に見えたのは。
高く振り上げられた、ガラス石の刃に映った、小さな炎が閃く光。
「兄さん・・・・・・?」
咄嗟に手を伸ばそうとして。
石畳の地面に触れていた自分の手が、生温かいものに指先が触れたのに気づいた。
「――だから言ったのにさ、綺麗事言う奴が、一番信用できないんだよってね」
暗闇に佇んでいたのは、テオト。
気を失って倒れて、動かなかったはずのテオトが。
血の滴る石のナイフを握りしめて立っていた。
「落盤の罠はけっこううまくできたと思ってたのに。ケツァル、あれであっさりオサラバってことにはならないかぁ。でも・・・・・騙し討ちだったら僕、案外得意なんだよ」
笑っていた。
「ねぇ、トネリア、岩蛇がたどり着く先はここで終着点だって言ったね。
もし黄金が見つかったら、お前はどうする? ・・・優しい兄さんのために、立派な墓でも立ててあげる?」
◇6◇
崩れるように倒れかかってくる体を抱きしめた。
深く貫かれた背中の傷からは、脈打つ鼓動の音と共に、熱い液体が溢れている。
はっきりとわかるほどに、濃い血の匂いがした。
テオト。そう呼んで、兄さんは、後ろに立つ彼の方を振り返ろうとする。けれど、わずかに肩が動いただけで、また喉の奥で呻いて、その場に崩れる。
「嘘でしょう・・・・・・」
むせ返るような低い呻きが、とても不吉な音に聞こえた。
ねぇ、だって、一緒にここから帰るんでしょう。
必ず連れて帰るって、今、言ってくれたばっかりじゃない。
「けっこう、いい感じにトネリアに信用してもらえたと思ったのになぁ。まぁいいや。ここまでたどり着けたらもう十分。
俺のこと目の敵にしてたケツァルのこともうまく出し抜けたし。俺だけだとうまく読めなかった蔓の紋様も、トネリアがうまく解いてくれたし。
結局なんだかんだで、ケツァルの言うこと信用するんだよね。まぁ、ばれちゃあ仕方ないか。
残念だけど、ここから生きて帰るのは俺だけだよ」
信じられないような、愉しげな口調でそう言って。
横目で私達のことを眺めて、それからもう一度、テオトは石の扉に手を伸ばした。
「僕は、あんな辺鄙な村で一生ぼろを着て、家畜の世話をして暮らすなんてごめんなんだよ」
吐き捨てるような、そんな言葉が聞こえた。
「兄さん・・・・・・、お願いしっかりして、今手当するから、動かないで」
「トネリア・・・・・・・」
抱えるようにして、兄さんの背に手を伸ばすと、ぬるりと生温かい血に浸る感触がした。
頭が真っ白になって、どうやって助ければいいのか、考えることができない。
「いつかお前が、誰かに連れられて、この谷に行ってしまうんじゃないかと思ってた・・・・・。赤ん坊の頃に、一緒に預けられてた、あの地図があったから。それだけが、怖かったんだ・・・・・。
十五年前・・・・・、お前が来てくれてから、やっと父さんと母さんに、笑顔が戻ったんだよ。生まれたばかりの妹が死んで、でも俺は何もできなくて・・・・・。
だから思ってた、絶対お前のことは、俺が護るんだって・・・・・・」
自分の肩掛けを、どうにか傷に当てているけれど、そんなものではとても血は止まりそうになかった。
兄さんの呼吸が、だんだん弱くなっていく。
かすれる声が、私の耳元で、ずっと、語りかけていた。
「トネリア、必ずお前は、無事に帰ってくれよ・・・・・。
黄金が、あろうとなかろうと、どっちでも、いい。俺はただ、お前を連れてきて、この場所に一体何があるのか、見て確かめてみたかったんだ・・・・。
そして、お前と一緒に、俺達の住む家に帰ってきて。ただいまって言って。
お前の居場所は・・・・・・、ここだよって。ここがお前の故郷なんだって、その時に、ちゃんと・・・・・・・・」
大きくてたくましい、背の高い体。この背中が大好きだった。胸に耳を寄せていると、温かい鼓動が聞こえる。
力が抜けていく兄さん体を抱きしめながら、ずっと、私に宛てて紡がれる言葉を聞いていた。
大丈夫だよ。私、どこにも行かないよ。
私が怖かったのと同じように、きっと兄さんも、怖かったんだね。
「ごめんな・・・・・・一緒に、帰れなくて・・・・・・・・」
ううん。そんなことないよ。
必ず、一緒に帰ろう。
握りしめていた手の熱が、急速に失われていく。背中の傷から溢れ出した血が、冷えていく。
だけど、鼓動の音はいつまでも聞こえていた。
かすれた声が途切れても。抱きしめていた体が、動かなくなってしまっても。
私の中の鼓動の音と一緒になって、ずっと、私の内から聞こえていた。
「兄さん・・・・・今まで私のこと、守ってくれてありがとう・・・・・」
この腕に抱きしめた、重み。温もり。命の音。
愛しい肌の柔らかさと、止まらない涙の感触。
遠い記憶の中で聞こえる声がする。生まれたての赤ん坊が泣いている声だ。
小さくずっしりとした、一粒の命。抱きしめている誰かの腕の温かさ。肌に触れる柔らかい布の心地良さ。
響く泣き声が、天に響き渡るように何重にも空気の中でくり返し反響する。
ああ・・・・・・。私、きっと、この場所で生まれたんだ。
なぜか無性にそんな気がしてならなかった。
人が死ぬとき、誰かが泣くのと同じように、私が生まれた時も、誰かが泣いていただろうか。
顔を上げて、周囲の岩壁に彫られた紋様を、もう一度よく眺めていた。
涙の止まらない目で見る視界の中に、岩壁に散りばめられた小さな水晶の飾りが反射して見えて、不思議とはっきりとその紋様を見て取ることができた。
左右、そして頭上にも、複雑に続く紋様の壁。
金塊を腹に蓄える、岩蛇の紋様。
今ならわかる。
あのレリーフが表すのは。
「黄金よりももっと大切なもの・・・・・」
ぽつりと口にしてつぶやいた。
肩で支えていた、動かなくなった兄さんの体を。
ようやく、自分の体から離して、石畳の床の上に寝かせた。
この大きな手、ずっと好きだった。
でも、握り締めたままだと、ここから立ち上がることができない。
温かかった手を忘れることがないように、もう一度ぎゅっと握りしめて。
ほどけるように、指先を離した。
◇7◇
「ああ、トネリア、ちょうどいいところにきた。この先がどうしても開かないんだ。手を貸してくれないかな」
石の扉の先で立ち止まっていたテオトがいた。歩いてきた私を見つけると、テオトは、何事もなかったかのように、普段通りに声をかけてくる。
私が身につけている肩掛けが、血に染まっているのはきっと見えているはずなのに。
何も言わずに、佇んでテオトを見つめ返していると、テオトはにやりと静かに微笑んだ。
「さてと、トネリア。君はどうする? 同郷のよしみだ。別に君まで殺そうとは思ってはいないんだよ? 僕の邪魔をしないならだけどね」
「私は別に、財宝も金塊も水晶も、何も欲しいと思わないわ。そうね・・・テオト、あなたはきっと、子供の頃にもらったはずの大切なものを、どこかに忘れてきてしまったのね」
「僕の石のナイフのことを言っているの? これがあったから、僕はこの谷のことを探ることができたんだよ。トネリア、君だってそうだろう。地図と、髪飾りと、その布の模様もだっけ」
右手に握っている、石のナイフを私の方へとかざして見せた。ガラスのように光る刃の部分に、まだ、紅い色が貼り付いている。
柄の部分にはめ込まれた飾りと、彫られた蔦の紋様を、テオトは指でなぞって眺めている。
「私・・・・・ここに、何が隠されているか、わかったような気がする。気づいてしまったの。
こんなことのために、平気で人を騙して、傷つけて、命を奪うなんて。あなた、とても可哀想だわ」
この場所を遺した、私達の祖先は、決してこんな愚かなことをするために、私達をここに導いたわけではないでしょうに。
「その先にあるものを、自分の目で見てくるといいわ。テオト・・・・あなたに、全部あげる」
石のつづらの中から出てきたものは。
金でも宝石でも水晶でもない。
赤ん坊の産着だった。
それといくつかの、子供の玩具。
「どういうことなんだよ、これは・・・・金なんかじゃない!
黄金なんて、どこにも見つからないじゃないか!」
「あなたには、きっとわからないでしょう。それが、あなたが忘れてしまったものよ」
大人になった時に取りに来ることができるように、こんなところに残されていた。
『生まれてきてくれてありがとう』というメッセージ。
「あなたがいくら、トプカの谷のことを調べても、ここにたどり着くことはできなかったはずよ。
だってこれは・・・・・私のために残されていたものだったのよ」
「こんな・・・つまらないもののために」
愕然とつぶやいて、テオトは、手にした古ぼけた布の、小さな小さな衣類を眺めていた。
「金を探していたのだったら、小石よりも価値がないものかもしれない。だけど、これを隠した人にとっては、金塊よりもよっぽど価値があるものよ」
私は、力なく立ちすくんでいるテオトに向かって、手を差し伸べた。
「テオト、一緒に帰りましょう」
「帰るだって? どこに・・・・・・」
「もちろん、私達が住んでいた村だよ。やっぱり、私の故郷はここじゃなかったの。
だから、必ず帰るわ。
それに、あなたが私に言ってくれたんじゃない。生まれがどこかなんて関係ない。この村の一員だって。私はちゃんと覚えているよ」
ねぇ、兄さん。
私、ちゃんと帰るからね。
故郷と呼べる場所に、必ず帰るから。
だから、兄さんもちゃんと一緒に来てね。
消えてしまったものはもう戻らない。
ただ、今までどおりの毎日があればいいの。
また毎日、機で布を織って。そうして過ごしていくんだわ。
◇8◇
子羊の世話をしている子供達が、話している声が聞こえてくる。
「トプカの谷には、黄金があるんだって」
「水晶が拾えるんだってよ」
仕事の傍ら、そんな声を耳にして、心の中でくすりと笑った。
子供はやっぱりそういう話が好きなんだなぁと。
「行ってはだめよ、帰って来れなくなってもしらないから」
「あ。トネリアお姉ちゃん」
「えー、僕、岩蛇なんて怖くないよ!」
そう言って腕を振り上げている、小さな男の子の頭を、私はぽんと撫でていた。
「言うこと聞かない子は、迷子になっちゃうわよ」
「へへ。そんなこと言われても、怖くないもん。・・・・でもね、内緒なんだけど、この間、こっそり行ってみようとしたんだけどね・・・こんなのを拾ってきたんだよ。これ、何かなぁ」
男の子はそう言って、こっそり拾ってきたというものを見せてくれた。
ポケットに入れていたものは、石の破片のように見えたけど、よく見るとそれは、ナイフの鞘のようだった。
傷だらけの表面には、何か模様が刻まれている。
「そう・・・・。これはきっと、大切なものよ。あなたが拾ったのなら、大事にもってなさい」
「え、そうなの? 何か凄いものなの?」
男の子は目を輝かせていた。
持ち主は、いつどこへ消えていってしまったのだろう。鞘を持っていた誰かも、どこかで幸せに過ごしているといい。
宝物は、あなたの暮らしているすぐそばにあるのだから。
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(9/1)
創作お題「頼れる兄さん」テーマだったんだこれは。