【 とりかへばや 2 】
貴族が好むのは、『雅』、そして『優美』。
扇を持つ手の所作さえも、たおやかな気品が無くてはならない。
東の殿にはいつも、その優美をお手本にしたような、柔らかな香の薫りが満ちている。
「藤、よくお前が宮中に出仕するお話を受けたものだね」
「・・・・・・ええ、宮中では、珍しい絵巻物や物語も沢山あるとお聞きして、見てみたいと思って・・・・・・」
東の殿を訪ねて、中納言は、妹姫と呼ばれる方の元で話していた。
袂で口元を隠しながら控えめに笑うと、雪白の頬に黒髪が揺れる。
「そうか、女春宮様はとても心の優しい方と聞く。お前にもきっとよくしてくれるよ。藤」
出仕の話でうろたえているのではないかと心配していたが、どうやら思い過ごしだったようだ。
昔、子供の頃は、同じ屋敷に住む侍女にさえ、恥ずかしがって顔を見せなかったのに、こうして自分の希望を話してくれるようになったのは良いことだ。
身に着けているのは、柔らかな桜色の六重の襲(かさね)。その上にまとうのは海老染めの袿。
藤姫はあまり派手過ぎない優しい色合いを好んで着る。子供の頃から絵を書いたり雛遊びや貝合わせが好きで、着物の色の好みは優れているといえよう。
並んで話す二人の顔を覗けば、おやと気づくものがいるかもしれない。
権大納言邸の西の殿に住む若君、菖蒲。東の殿に住む藤姫。二人の顔は、非常によく似通っていた。
それというのも、二人は腹違いの兄妹に当たる。
(私が言うのもおかしなことだが、よくもまぁ、美しく御成りになったものだ)
檜の扇を手慰みに仰ぎながら、目の前のはらからを打ち眺めては、ひそかに目を細めて感嘆する。
自分と同じ顔をした人が、物語の中の姫君のように絵に書いた美しさで御座している光景に、微笑ましいような嬉しいような心地を覚える。
子供の頃は、こんなふうに互いにくつろいで過ごすことなんか許されなかった。
藤は毎日毎日部屋の片隅で震えて泣いていたし、菖蒲といえばいつも癇癪を起こしては父の権大納言と言い争っていた。
(だからこれでよかったんだ・・・・・・)
菖蒲が女でありながら中納言という身分に立っているという秘密を抱いているのと同様に、腹違いの藤にも、同じく重大な秘密があった。
本来ならば、「権大納言家の若君」と呼ばれるべき御方は、西の殿の菖蒲ではなく、東の殿に住む藤の方である。
今この目の前で、なよやかで優美な桜色の着物に身を包み、烏羽玉の黒髪をなびかせた藤姫こそが、十六年前の誕生の時に誰もが将来を期待した、ただ一人の権大納言家の嫡男だった。
(私も藤も、今こうしてこの姿で過ごすことのほうが幸せだ。それでどうして悪いことがある)
藤の着物の桜色を眺めながら、菖蒲はぼんやりと、遠い昔の頃のことに思いをはせる。
まだ二人が、ほんの子供だった頃だ。
*
あれはいつの頃のことだったか。
菖蒲が初めて、父の目を盗んで、西の殿から東の殿へと渡ってきた時。
何をしにやってきたのかはあまり覚えてない。
童子たちと蹴鞠をしていて鞠が転がったのを探しに来たか、小弓をしていて飛んだ矢を拾いに来たか。
だけどこの西の殿で目にしたものは、忘れられない。
自分と同じくらいの歳の子供が、縁側に座り込んでいた。
白い汗衫を、被るように肩にかけて、引きずる袖を顔に当ててシクシクと泣いていた。
女の童だと、最初は思った。
どうして泣いているのか興味を持って、話しかけようとしたとき。やってきた菖蒲に気づいた彼女が、弾かれたように顔を上げた。
そして二人の子供は、同時に驚愕する。
互いの顔は、まるで鏡を見たようによく似ていた。
「待って!」
人見知りが激しい藤は、すぐさま逃げて、部屋の奥へと隠れてしまう。
菖蒲は慌てて引きとめようとしたが、御簾を下ろした奥へと引き込んでしまって出てこない。
どうしようかと思った菖蒲は、ふと思いついて、懐にいつも持ち歩いていた小笛を取り出し、その場で吹いてみた。
よく遊ぶ童子に頼み込んで譲ってもらったもので、当時の宝物だった笛。菖蒲はこれを吹くのが好きだった。
鳥のさえずりと風の音によく似た伸びやかな音色は、逃げてしまった藤の興味を引いた。
恐る恐ると戻ってくる。菖蒲はほっとして微笑みかけた。
「僕たち、そっくりだね」
「うん・・・・・・」
このとき菖蒲は、男童子が普通よく着るような、薄い水色の水干を着ていた。髪も人くくりに束ねてある。
女ならば、人と話すときは控えめになさいとよく叱られたが、そんなこと菖蒲はおかまいなしだった。この格好からも手遅れなように、男の童子として振舞うことにはすっかり慣れていた。
目の前に現れた、不思議な女の童を、遠慮なくまじまじと見つめながら話しかける。
「驚いたなぁ、そういえば以前父上から、西の殿には、僕と同じ歳の兄上がいると聞いたのだけど?」
菖蒲の言葉を聞いて、彼女はすぐさま、熟れた果物のようにかぁぁと見る間に激しく赤面した。
ああ、なんだ、そういうことか。と。
賢い菖蒲は、彼女の不自然な立ち振る舞いに、すぐさま事情を察して理解した。
子供の直感といえるのかどうかわからないが、自分も同じような立ち振る舞いをしている身であること。
そして血を分けた間柄である絆のようなものがあったのだろう。
この人が、僕の兄上だ。
「あの・・・・・・私も、西の殿には、私の妹姫がいると、父上様からお聞きしたのだけど・・・・・・?」
おずおずと、うつむき加減になりながら、ちらちらと上目遣いになって菖蒲の顔を見る。
話すときに袖元で口元を隠そうとする所作、相手の顔を正面から見ようとしない仕草は、幼いながらも女の立ち振る舞いの作法だ。
意識してそうしているというよりは、彼女の場合、本当に人と話すことが恥ずかしくてたまらなくて、自然とそういう所作を取ってしまう。
菖蒲は、にやりとうち微笑んで、ぺろりと舌を出して笑って見せた。
「ああ、やっぱりあなたは僕の兄上様なんだね」
かぁぁぁぁ。
あまりにもはっきりと話す菖蒲の言葉に、藤はいっそうひどく赤面した。
「ご・・・ごめんなさい・・・・・・妹姫ではなく、私のお兄様だったのかな・・・・・・・」
ちなみに、兄や弟、姉や妹といった言葉は、どちらのほうが生まれが先かという点では限定されない。
相手のほうを上に見る場合、兄弟姉妹のことを、互いに兄、姉と呼ぶ。敬い言葉のようなものだ。
だから藤はこのとき、菖蒲のことを「兄」かと思った。
戸惑うような眼差しは、半分、菖蒲の本性のことを疑っていただろう。しかしあまりにも菖蒲が「男」の童子としての姿で堂々としていたので、見たままを信じてしまった。
「恥ずかしい・・・・変でしょこんな格好で」
「変じゃないよ。僕だってこんな格好だけど本当は女だもの」
「え」
泣き出しそうな顔で赤面した少女が、驚いて目を丸くする。
「残念でした。父上が、外に出るならせめてこういう格好で男の子のふりをしなさいと言うんでね」
いたずらっぽく歯を見せて笑ってみせる。どう見ても少年だった。
「僕があんまり外で遊びたがるものだから、人と会うときは男の子の格好をしなさいと父上に言われたの。女の子が外で遊ぶのははしたないって。変なの」
「そうなんだぁぁ・・・・・・・すごいなぁ。私は僕で遊ぶなんてすごく苦手だよ・・・・。他の男の子が、すごく僕のこといじめるんだもの。
僕ね、人と会うのすごーく苦手なんだ・・・・・・。顔を見られるのが恥ずかしい。ずっとお部屋の中にいたい」
藤の口調が少し崩れた。女めいた喋り方から、普通の少年らしい口調になる。それでもまだなよなよしていたけど。
ちなみに菖蒲の場合は少年口調のほうが素になっていた。
「えー変なの。外で遊ぶ方が絶対に楽しいのに。今度一緒に遊ぼうよ、小弓教えてあげるよ」
「嫌だ絶対いや! 部屋で貝合わせや雛遊びしてるほうがいい! 僕はそういうのに、父上が、せっかく大事にしていた雛を捨ててしまって・・・・」
藤の大きな眼に、みるみる涙が浮かんでくる。
あーあ、と内心思う。雛遊びのどこが楽しいのかわからなかったが、もし自分だったなら、大事にしている笛や弓を捨てられてしまったなら、もう泣き喚いて激怒するに違いない。
「父上ひどいなぁ・・・・・・」
「せっかく女の童の子から貸してもらったのに、捨てられたなんて絶交されちゃうよ。もう二度と貸してもらえないかも知れない。
雛がほしいと言ったら父上はすごく怒るけど、僕には笛や弓や漢文の本ばかり持ってくるし・・・・。
しかも、全然使ってませんっていうと、また怒るし・・・・」
「はぁ?!」
菖蒲は飛び上がりそうになった。
「父上は、あなたにはそんなにいろいろ買ってきてくれるのか?!!」
ものすごい剣幕で食いかかってくる菖蒲に、藤は肩をすくませて縮み上がった。
「う・・・うん・・・・・・。男の子だから、こういうものを持ちなさいって・・・・・・・。
でも、僕、そんなの難しくて全然出来なくて・・・・・・・・いつも叱られるんだよう・・・・・」
男の子だから。
その言葉に、悔しさのあまりに拳を握り締めて歯を噛みしめた。
自分がほしいと言ったものをちっとも与えてくれないくせに、東の殿に住む彼女には、不必要なほどに与えている。
理由はたった一つだった。
『男の子だから』。
一体、自分と男との何が違うのだろう。着ているもの意外に何が違うんだ。
菖蒲の内心の歯がゆさを知らず、藤はまだめそめそと泣き続けて、目を赤く腫らしている。
悔しいというよりは、なんだか可哀想になってしまった。
自分と同じ顔をした相手が、ひたすら泣き続けているのは見ていられない。
「泣かないで」
妹が出来た気分だった。
父上の理不尽なお叱りにはもううんざりだ。この悔しさを共有できる相手がいるのは多少嬉しかった。
「そんなに貝や雛がほしいなら、じゃあ、僕が持っているのを全部、兄上にあげるよ。僕はあんなもの全然要らないからさ」
「ええ?」
「その代わりでいいから、兄上の着物や、笛や本を貸してくれない?
もし兄上が父上に叱られたら、僕が代わりになってあげる。僕は漢文も笛も弓も得意なんだよ。同い年の童子にも、鞠遊びだって誰にも負けないんだ。兄上が誰かにいじめられたら、僕が助けに来てあげるから」
泣いている藤の背中をさすりながら、菖蒲は微笑みかける。
頬を赤く染めて目を潤ませている藤の姿が、とても可愛いと思った。
「あ、ついでに、たまにでいいからさ、兄上が僕の代わりに、僕のふりをしてくれない?
僕があまりこんな格好ばかりしていると、父上からも母上からも怒られるからさ。
女の子のずるずるした動きにくい着物なんかいらない。全部兄上にあげるよ」
そうして、互いの衵と水干の衣装、貝と小笛、雛と弓とをそれぞれ交換した。
自分がほしいものは、全て相手が持っていた。
「とりかえたい」と、それぞれに差し出した互いの持ち物。
ほんの軽い気持ちだった。
それが、二人の物語のはじまりだった。
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