【 とりかへばや 8 】





郭公の鳴く声が外に響いていた。
初夏に差し掛かる折、普段なら、のどかに思うことだろう。


外の鳥の声など全く耳に入る様子もなく、冷ややかに目を吊り上げた、美麗の麗人。
目の前に立つ男に、ぱしり、と文を叩きつけた。
真っ白な陸奥紙に、中の墨の色が透けていた。丁寧に折りたたまれた紙からは、ほのかに艶めいた香の薫りがした。


「これが四の姫の部屋から出てきた。・・・・・・どういうことかわかるな? 中将」

「ああ・・・これは確かに、俺が書いた文だな」


床に落ちた文を、開きもせずに一瞥しただけで、そう頷いて薄笑いを浮かべる。


「そうだろうな。この字はお前の御手だ。見ただけですぐにわかったよ。自分で書いたものなら、中身を確認するまでもないだろう」
「・・・・・・これはこれは、いつもすました顔で微笑んでいるばかりかと思ったら、中納言、お前でも、そんな怒りの表情を見せることがあるのだな。驚いたよ」
「真面目に答えろ、鷹之!!」


滅多に呼ぶことのない、宮中の役職ではない、本名でその男のことを呼ぶ。
身分ある宮中人ならば、馴れ馴れしく名前で呼び合うことはほとんどない。
名前で呼ぶのは、血を分けた近しい家族であるか、あるいは階級が下の者を呼ぶときか、よほど慣れ親しんだ旧知の友人であるかだ。
この男のことを、身分や役職の呼び名ではなく、名前で呼んでいたかった。
体裁や職などではなく、ただ、心の内を語り合える相手でいたかった。

そう思っていたのに。


「どうしてだ・・・・・・・・・・」


陽炎が揺らめくような、儚げなか細い声音で問いかける。
菖蒲の眼に浮かぶのは、悲しみと怒りの色。色恋沙汰の嫉妬と呼ぶには、あまりにもその眼は痛々しく見えた。


「俺のことをいつも隣で見ていたお前が、それを俺に聞くか。お前は聡明なくせに、存外、色事には疎いんだな」
「そんなはずはないだろう。知っていたさ。お前が本当は、四の姫を自分の妻にしたいと、かねてから思っていたのだということくらい」


中将は静かにうち微笑んだ。かすかに細めた目が、瞬きもせずに目の前の中納言を見つめている。
この目の色の意図する心が、わからない。


「そうか・・・。だったらそんなに、驚くことでもないだろう」

「お前には失望した・・・・・・・」

「ああ、俺もだ。中納言」


密通の証拠を突きつけられて、慌てて弁明を始めるかと思いきや。
中将は全く動じる様子も、わびる素振りも見せない。落ち着き払った様子で、正面から見つめてくる。


「俺にもわからないことがある」

「何・・・・・・」

「なぜお前は、四の姫を愛さなかったんだ」


直立したまま、握る拳に力が入る。
覚悟していた問いだった。


「馬鹿なことを言うな、私は、四の姫を愛している・・・・・」


口から出す言葉が、喉の奥に張り付いて痛むような心地がした。
男ならば。
妻を愛するというのが、どういう意味か当然わかっているだろう。知らないはずもない。
中将には気づかれてしまったのだ。
菖蒲と四の姫が、その実は偽の夫婦であったことを。

中将の目が何を思っているのか、わからない。


「いたく月の明るい夜だった・・・。俺はお前に会いに行こうかと思って立ち寄ったんだ」


ぽつり、ぽつりと。中将が語りだす。


「最初から姫が目当てで忍んでやってきたわけじゃない。
 お前が留守だったんで、そのまま帰ろうかと思った。だが偶然、姫が一人で縁側に出て、月を眺めている姿を見たんだ」

「姫が・・・月を見ていた?」


中将の落ち着いて話す声音に聞き入って、いつしか、彼を咎めることを忘れていた。


「ああ。その横顔を垣間見て、俺はついつい・・・・・・その場を立ち去ることができなくなってしまった。
 あまりにも悲しげな・・・寂しい顔をしていたんだ」


その話に、胸が締めつけられるような心地がした。
わかっている。きっと自分では、姫を本当に幸せにすることが出来ないのだと。
男と偽っていることを明かすわけにはいかず、表面だけの仮初の夫婦を取り繕っているのだ。


「中納言、お前は姫一人を妻としてとても大切にして愛しているのだと思っていた。
 それなのに、なぜあんなに美しい人を傍に置きながら、今まで触れもしないで遠ざけていたんだ」


何も言い返すことが出来なかった。こちらの方が逆に、中将に咎を責められる側になっていた。
互いに都合の悪いことだ。公に明かすことはできないだろう。それを逆手に取った上で、中将は問いただしてくるのだろうか。


「はじめは、四の姫は大人しい幼い人なので、手荒な愛し方はせずに接していたのだろうと考えた。
 お前は他に女と接して浮名を立てることもないらしい。それだけ、聖心のある証だろうと」


真面目すぎると言われるのは常のことだった。
恋愛は、決して不名誉なことではなくむしろ貴族の男の嗜みの一つであると。
宮中男達と話す中で、何度そう茶化されたことか。
お前ほどの美貌の男なら、文を交わすだけで舞い上がる女が大勢いるだろう。
しかし菖蒲は、妻一人を大事にしている体裁で、何も女と深い交流を持たなかった。

偽っていることを知っているからだ。騙すのは、四の姫一人で十分だ。


「あえて、俺が感じたことを正直に話そう、中納言。
 俺はお前を見ながら、お前という奴が・・・・菖蒲の中納言と呼ばれる男が、どうにも奇妙に思えてならないことがある。
 人として違和感があるとでも言おうか。
 お前は、完璧すぎるんだ」

「どういうことだ・・・・・・」

「俺が思うに、どんなに優れた人間でも、一つくらいは欠点があるはずだ。お前にはそれが見当たらない。
 なんだかまるで、仏が人の形を取って化身しているか、あるいは」


中将・鷹之という男は、菖蒲にとって、殿上に上がったときより近しく親しんでいた男だった。
菖蒲より先に殿上に上がっていたこの男は、後からやってきた菖蒲を除いては、他に並ぶものもなく、聡明で文武に秀でていて、眉目秀麗であると。
だから、菖蒲も気づいていた。
この男の並みならぬ、感性の鋭さに。


「まるで咎人が、大きな罪を隠して潜んで振舞っているかのようだな」


薄笑いを浮かべて、ひそやかに話すその声に、すっと背筋が冷たくなるような心地がした。
何か言い返そうと思うが、唇が乾いて、舌先が痛んで、言葉が告げない。
射抜くような細い目の、中将の眼差しが、直衣の下に隠したこの肉体の秘密を、まさか見抜いているのではないかという恐怖がわきあがる。

この男は、油断できない。


「馬鹿なことを。人の妻を盗んだ自分の不道徳を棚に上げて、よくもそんな浅ましいことが言えたものだな」

「ああ・・・・・・言われてみれば確かにそうかもしれないな。悪い。今のは俺の口がすぎた。詫びるよ。
 だが、何もお前を怒らせようとして言ったわけじゃない。
 その場の出来心とはいえ、四の姫と通じた俺が言ってもお前には聞き入れてはもらえないかもしれないが。
 中納言、それでもお前は、お前が宮中に来たときからこうして打ち解けて話す仲ではないか。
 もしお前が、何か大きな隠し事をしているのならば、仏を気取ることなどやめて、話してみないかと言いたかったんだ」


低く囁くその声が。一つ一つ、胸に突き刺さってくる。
優しい声音をしているだけに、なおさらのこと。
その言葉が本当に優しさなのか、それとも、妻を奪われた男を単にあざ笑って楽しんでいる皮肉なのか、わからない。


「お前が生真面目で完璧すぎると言われるのは、心に何か咎があるからじゃないのか。
 女に触れることもせず、この世に執着心を持たぬようしているように見える。俺にはそう思えたが」

「私に嫉妬しているのか中将。お前のその言葉、飛んだ笑い種だよ。言いながら自分で気づいているか?
 生真面目で完璧、大いに結構。私は幼少の頃より、父、左大臣の嫡男としてその名に恥じぬよう努めてきた」


そうだ私に欠点などない。子供の頃からそうだった。父、権大納言の自慢の息子と言われていた。
優れてさえいれば、こんなに、心が苦しく思うことはないはずだったのに。


「四の姫にも、私が誠意を持って心を尽くしていることをわかってもらえれば、きっと理解してもらえよう。
 乱れた夜を共にするばかりが夫婦ではないと私は思う。
 完璧な人間にも欠点があるか。それはそうだな。お前には、その色好みが欠点か。どうやら私とお前は、どうしても理解しあえないようだな」

「中納言」


冷ややかな笑みを投げかけて立ち去ろうとする。
が、菖蒲の背へと、中将がまた声をかける。


「もう二度と、お前の愛しい人には触れないと約束しよう。
 ・・・・・・だが四の姫に、あのような顔をさせるなよ。一人で月を眺めている横顔は、まるで月へ帰って行こうとする姫のようだった」

「・・・・・・・っ!」


にわかに、怒りと屈辱で打ちのめされた。
どうしようもない敗北感を感じていた。
いっそあざ笑ってくれればいいのに、中将はいたって本心でこんな悔しい言葉を浴びせてくる。


この身が男でさえあったならば。
きっと何不自由なく、姫を幸せにして上げられただろうに。














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(2011/6/4)




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