【 とりかへばや 9 】
灯籠の火がゆらゆらと揺らめいていた。
室内の畳の上には、中納言と四の姫、二人の影が並んでいる。
こんなに近くに座っているのに、二人の距離はひどく隔てられていた。
「あなたには失望しましたよ、四の姫」
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・・」
中将との密通を問いただすと、彼女はひどく怯えて、震えていた。
心の中のやましいことを突かれると、人はこんなにも脆くなるものらしい。
袂を顔に当てて決して目を合わせぬようにして、か細く泣き出しそうな声で謝罪を繰り返す。
白粉を塗った真っ白な頬に、匂やかな紅の唇。丸い額の下にそっと添えた眉墨。
奥ゆかしい綺麗な女性だと思っていた。
小さくため息をついたのに気づいてか、姫の伏せた目元から、ほろりと珠のような涙の粒がこぼれた。
巷の物語で読んだ限りでは、女性が夫以外の男と関わりを持つことは、ほとんどと言っていいほど、男の乱れた振る舞いが多かった。
それを世間では、女性の不注意や慎みの無さと言うものの、どうしても中納言はそれを責める気にはなれない。
四の姫も、このように密通を責められて、胸を痛めていることだろう。
かといって、先だって中将から聞いた四の姫の話を聞くと、中将だけを一方的に恨む気持ちにもなれなくなっていた。
一人で寂しそうな様子をしていたところを、たまたま中将が通りかかって、その横顔を垣間見た。それを素通りできなかった。
この人に辛い思いをさせたのは、私の責任だ。
「・・・・・・先月頃から、多少、お体の調子を崩されがちだと聞きます。どうかなされたのですか」
「いいえ、そんな・・・・・・」
「そんなに怯えてしまわないでください。乳母がそれとなくほのめかしておりましたよ。柑子さえも吐き戻される様子でいると」
何を言おうとしているのか姫も察した様子で、はっと弾かれたように顔を上げた。
わななく唇と、瞬きを繰り返す瞳は、気の毒なくらいに青ざめていた。
こんなに辛そうな様でいる姫君に、一体どんな言葉をかけろというのか。
「いいでしょう。あなたに愛情が薄かった私にも罪がある。過ぎたことは水に流します。
あなたに子が生まれても、私の子と思って育てると約束しましょう。どうかしばらく体を大事に・・・・・・」
「・・・・・・どうして!」
不意に。
四の姫が、中納言の袖を掴んだ。さっきまで、凍りつくように強張らせていた顔からは、大粒の涙が散っていた。
「あなたはどうして、私のことをお責めにならないのです!!」
その言葉にかえって驚いたのは、中納言のほうだった。
泣きながら、すがるように中納言の着物の裾を引き寄せて、嗚咽を漏らして必死に訴えようとする。
「責めてくれるかと思ったのに。菖蒲様。
あなたはとても私に優しいけれど、いつも、あまりにも整いすぎていて、どこか作り物めいた優しさだと薄々感じていました。
どんなに近くで微笑んでくれても、毎晩必ず私だけの元へ帰ってきてくれても、それでも、あなたは私を見てはくれていない。
本当には私に心を開いては下さらないのでしょう、気づいておりました。
菖蒲様、わたくしは、あなたの妻には不十分ですか・・・・・・?」
切々と訴えながら、四の姫の瞳からは涙が溢れている。
中納言の袖の上にこぼれて、跡が残った。
綺麗に整えている黒髪が乱れて、涙で頬に張り付いていた。
世間知らずの幼い姫君だと思っていた。
夜ごと語らい、一重の衣を隔てたまま共に寄り添って、この腕で慈しみながら過ごした。
あの頃はきっと、何も疑問に思わず、中納言を愛しの背の君と慕っていたはずだった。
手枕に寄り添い、寝息のかかる近い距離で微笑む姫君は、本当に愛くるしいと思った。
この人を、妻として愛し、慈しんでいるつもりだった。
世間にそう思われているのと同様に、非の打ち所の無い、良き夫と思われていると。
そう信じていたのに・・・・・・。
「このことが知られたら、きっとあなたにも叱られると思いました。
でも私は、きっとそうなることを・・・・・・、あなたに私の過ちを知られてしまうことを、心のどこかで待ち望んでいたような気がします。
どうか私のことを、お怒りに思ってほしかった。あなたの、本当の言葉が聞きたかったのです」
姫の手が、まるで、迷子の子供が母の手を探すようなおぼつかない仕草で、懸命に、中納言の手を引き寄せようとする。
ほっそりとした、小さな手だった。
「もし本当に私のことを妻として愛してくださっているのなら、どうか、あなたを裏切った私の罪を責めてください・・・・・。
他の男と通ずるなと、私はあなただけのものだと、私にも聞こえる大きな声で仰ってください。
もし・・・・あなたが私を愛していないのなら、私のような女などいらぬと、どうか正直に仰ってください!」
衣にすがりついてくる四の姫の姿に、胸が潰れるような心地がした。
どうすれば、私は許されるだろうか。
この人を、この場で抱きしめてあげればいいのか。
それでもどうあがいたって、彼女が望む本当の夫婦には決してなれはしないのに。
「菖蒲様、私は、あなたと夫婦になりたい。
私の夫はあなたただお一人だけだと、あなたの腕の中で、どうか私に誓わせてください・・・・・・!」
「・・・・・・はしたないことを申すな!」
強引に腕を振り払った。
すがる手を叩き落とされて、姫君はひどく傷ついた顔で中納言を見た。
「あなた一人を大切に想い慕っているからこそ、今まで他の女性に決して目を向けたこともなかったのに。
その気持ちを受け止めていただけなかった私が、どうしてあなたに真に心を開くことができましょうか」
違う、本当に言いたいのは、こんな言葉じゃない。
彼女を振り払うために、最も姫君が傷つく言葉を選んで、投げつけてしまっている。
でもこうするしかなかった。
本当に非があるのは私のほうなのに。
彼女のあやまちを責めることも出来ず、かといって愛することも出来ない。
ましてや本当のことを告げて、心からわびることも出来ない。
締めつけられる胸の苦しみが、いっそう深くなるばかりだ。
「姫、私はしばらくここに通うのをやめましょう。今のあなたを見ているのは私には辛い。かねてより行きたく思っていた寺にでも訪れてこようかと思います」
「そんな・・・・・・・」
「あなたのことを恨みたくはない。だから、私の心があなたを許せるまで、どうか私のことは忘れてください」
諭すように静かにそう告げて。
御簾をくぐって姫を残して立ち去った。
暗い宵闇の中に、姫の泣き崩れる嗚咽の声がいつまでも響いていた。
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