台所から甘い匂いが充満している。
日曜日。今日は部活もバイトもない。
自室から出て階段を下りてきた悠は、なんとなくそこにあるであろう光景を予想しつつ、台所に到達した。

「やっほー、兄ちゃん」

末の弟・来地がエプロン姿で、板チョコをがしがしと砕いているところだった。

「来地、お前何やってんの」
「いや、チョコレート」
「そりゃ見ればわかるけどさ。おかしくね? 何でお前がチョコ手作りしてんの?」

非難たらたらの口調でツッコミを入れつつ、ふと台所の壁のカレンダーに目をやる。
月日が経つのは早いもので、新品だったカレンダーはようやく一枚目を切りはがされているところだった。
壁掛けカレンダーには、如月の二文字。

「んー、最近クラスの女子が試食会ばっかやってんだよねー。話聞いてたらなんだか自分で作るのも面白そうかなーと思って。
 貰って食べるより、自分で作ったほうがいっぱい食えるし手っ取り早いじゃーん?」

湯煎で溶けるチョコレートの様子が面白いらしい。ゴムペラでぺたぺたとチョコレートをかき寄せながら、楽しそうに声を弾ませている。
この甘党男子め。悠は脱力感と共に内心で軽く毒づいて、エプロン姿の弟を眺めていた。

「悠兄ちゃんも食べる?」
「いらんわ」
「まぁまぁいっぱいあるから遠慮すんなってー。はっきし言って俺クラスの女子より作るの上手いよ」
「言っとくけどそれをクラスの女子に言うなよ」
「わーかってるよーー、皆一生懸命作ってるんだから、味見係の俺が励ましてアドバイスしてあげなきゃなんないんだからさーー」
「っていうか来地お前、クラスで一体どういうポジションしてんの??」
「えーとね、本命チョコ作ろうとしてる女子が、ちょっと男の子の意見聞きたいから味見してって言って、フライング義理チョコくれる最近」

それは世に言う義理チョコではなく、女子の間で言う友チョコの分類だよと内心激しくツッコミを入れたい衝動に駆られる。
悠は再び壁のカレンダーに目をやる。なんとなく14という数字を見つめてしまう。

「まぁ、貰うチョコレートの数が男の価値じゃないよね兄ちゃん」
「慰めるような口調で言うなマジ腹立つ」








棚に並べている、凝った装飾のガラスの瓶を丁寧に布で拭きながら、その話を聞いて琳吾が笑い声をあげる。

「ははは、とうとう今年は手作りか。らい君ならやりかねないなぁ」

店には既に琳吾と達巳がいて、店頭の品物の手入れをしている。
何か手伝おうかと思って出てきたものの、手持ち無沙汰になりながら、悠は店の片隅に腰掛けていた。
窓の外を見ると、凍てついた灰色の空から、ちらちらと粉雪のようなものが落ちてくる。外は相当寒そうだ。
店の片隅には、長男お気に入りのイギリス製のバーラーストーブが添えつけられていて、赤赤と燃えている。
悠は上の兄二人ほどにはアンティークの知識はないが、ここだけ見ていると、マッチ売りの少女とかくるみ割り人形とか、そんな絵本の中で出てきそうな眺めだと思った。
琳吾もそのあたりを心なし意識しているのかどうか、店内の目立つ場所や窓の外から見えやすい場所には、やや西洋アンティークをイメージした品物が増えている。布張りの肘掛のある椅子とか、薔薇の絵柄のティーカップとか。
冷え性の達巳はそのストーブの近くからできるだけ動こうとしないまま、黙々と陶器の皿や箪笥の木彫り模様を磨いている。
足元には、ノブナガがぬいぐるみのように丸くなってうとうと眠っている。

「たつ兄、ノブナガ、店の中に連れてきちゃっていいの。商品や床に毛がつくんじゃ」
「ん・・・・・家に置いとくとねー、ライちゃんが並べてるお菓子を食べようとするんだよねー・・・・。ノブナガが届かない場所に置いといてくれるといいんだけど」

ああ、と、悠は納得の声を漏らした。ついでに言うと、達巳は甘いものは大の苦手なので、家中に充満するチョコレートの甘い匂いは、正直勘弁してほしいに違いない。

「そういう悠くんはどうなんだよ。青春真っ盛り華の高校生。クラスの子とか、部活の女子とか、あとバイト先の知り合いとか、そういうドキドキするような話ないの」
「俺にそういう話振らないでくれよ兄貴・・・・・・」

悠はがっくり肩を落とす。
部活は男子ばっかりだし、バイト先もパートのおばちゃん達には仲良くしてもらってるが、特に甘酸っぱい話は無い。
先日、友達の友達というありがちな経緯でどうにかメル友になってデートの約束までたどりついた女子がいたのだが。たまたま遭遇した迷子を送り届けるという展開に陥り、結果として約束をすっぽかした形になって綺麗に振られてしまっている。もはや思い起こすと笑い話の領域だ。
琳吾は自分が地雷を踏んだことに気づいて、苦笑いを浮かべつつ、ぽんと悠の肩に手を乗せた。

「まぁまぁ・・・貰うチョコレートの数ばかりが男の価値じゃないさ」
「琳吾にい、それ、来地からも同じこと言われた」
「別に何も気にすることないよ、ハルちゃん。俺も別にそういうの気にしないし、貰っても困るだけだし」
「いや、何気に来地の次に毎年沢山バレンタインに何かしら貰ってきてるのは、実は辰にいだからね? ちゃんと貰ったの食べてる? 毎年店にひっそりせんべいとかクラッカーが届くんだけど、あれ、何経由で誰から届いてんのさ」
「え、そんなの俺にもわかんない・・・・。気がついたらなんか貰ってた」
「俺たまに女子から、『うさぎ君のお店の、カッコいいお兄さんにこれ渡してほしい!』って手紙とかバレンタイン煎餅預かったりするんだけどさ」
「いや・・・・・・でも俺そういうの全く心当たりもないし、興味もないんだけど。俺の恋人はノブナガだし」

ごくごく真面目な顔でそう言って、足元に転がっている白斑の兎の、もふもふした毛並みを撫でる。端正な顔の、クールな兄の表情が、兎のことになると途端に幸せそうにゆるゆるとした笑顔になる。兎にデレる、黙ってればイケメン系兄である。

「にしても確かに、らい君のチョコの獲得数は感心するね。小学生の頃からわりかし貰ってたけど」
「どうやら『俺、チョコ食べたいからー!』ってあえて公言することで、女子が渡しやすい環境を自ら作っているらしい」
「男のプライドとか思春期の恥じらいとかは無いのかあいつは」
「計算ずくだよねあれは・・・・・・」
「男子友達に疎まれないのかなそれ」
「来地が自由奔放で自分に正直なもんだから、それに便乗して回りも『俺も俺も』でチョコ受け取れる率が高いと聞く」

特に店には客が来る様子も無く、店内の簡単な清掃も片付いたところで、兄弟三人集まって雑談が始まる。

「じゃあ別に本命とか義理とかこだわってるわけじゃないんだよな」
「本当に純粋にチョコ食べたいだけだろ。おこちゃま」
「なるほど、来地らしいといえば来地らしいというか・・・・・・」

―――リン
不意打ちのように、ドアベルの音が小さく鳴った。

「こんにちはー。来地くんいる?」

ひょこりと、髪をツインテールに結った女の子が、開いた扉の隙間から顔を覗かせた。
宇佐木兄弟にとっては幼い頃から顔馴染みの、ご近所にすむ猫井さんちのお嬢さんだ。

「ああ、来地なら家の中にいるけど・・・・・。用事があるなら呼ぼうか? 亜梨紗ちゃん」
「んっと、ならいいわ。これ渡すだけだし。はいこれどうぞ」

琳吾に向かって、持ってきた紙袋を差し出す。

「お母さんがね、温泉旅行に行ってきたお土産なの。おすそわけで」
「へー、ありがとう」

にっこりと微笑んで紙袋を受け取る。

「あっ、亜梨紗だぁ」

家と店とが繋がっている奥の出入り口の方から、ひょっこりと来地が顔を出す。
唐突な声に、亜梨紗の肩が小さくはねた。

「らいくん、亜梨紗ちゃんがね、旅行のお土産のおすそわけだって」
「わぁい、それお菓子? うまいもん?」
「お饅頭らしいよ」
「わーお」

来地はわかりやすいほどの上機嫌な笑顔になって、渡された紙袋を覗き込む。

「あーそうだ、俺ちょうど、チョコレート作ってたんだよ。亜梨紗にもやるよ」

やりとりを見守っていた、来地を除く兄弟三人に戦慄が走った。
そう来ると思った。
それはまずい。やめておけ来地。そういうことを言い出すんじゃない。
口には出せないが、そういう危機感を感じつつ、非常にハラハラしながら、来地の発言を聞いている。
なぜならば、この季節、チョコレートというものがこの年代の思春期の女子にとってどれほどデリケートな存在であるか。推して知るべし。
お土産の入った大き目の紙袋とは別に、亜梨紗の手には、可愛らしい桃色の小さな紙袋がある。
こっそり隠すようにして腕にかけているが、この時期、その中に何が入っていることが予想されるか。ある程度勘が鋭ければ、男子の立場であっても想像はできる。
ちなみにそういった繊細なことに全く気づけないのが、この末っ子の来地である。残念なことに。
もしかしたら旅行のお土産というのも、何かの作戦なのかもしれない。

「俺さー、クラスの女子からいっぱいチョコレートもらうんだけど、なんか今度自分で作ったチョコ交換して食おーってなって、作ってみると案外面白いのなー。湯煎がちょっと面倒かったけど。
 亜梨紗ももしかしたらチョコとか作んの? 俺けっこう上手く作れたからさ、自信なかったら俺作り方教えてやるよ?」

爆弾投下。
予想を裏切らない来地の無神経発言に、見守る兄弟三人は、心の中で頭を抱えた。
亜梨紗は、案の定、表情を曇らせて、視線を彷徨わせている。手に持っていた紙袋は、来地に見えないようにそっと背中の後ろに隠していた。

「別に・・・あたしチョコとか作らないし」

拗ねたようにそっぽを向く。ちょっとだけ頬が赤くなっているように見える。不機嫌そうな素振りを見せて、伏せた目が少しだけ潤んでいる。恥ずかしいのか悔しいのか。そんな感情の色が見える。
そしてそのまま店の扉のほうへそそくさと向かって、出て行ってしまった。
リン、と、さっきよりも空虚な響きでドアベルが鳴る。

「なんだよー、あいつって相変わらず愛想ないよなー。せっかく俺がチョコやるよって言ってるのに」
「来地、お前なぁ・・・・・」
「うわー、あれはかわいそうだよ・・・・・・」
「うん。お前、殴りたいわ」
「ええええ?!! なんでなんで?!! 俺、なんか変なこと言った?!!」


店内には、ただ無言で佇むストーブが、温かそうに燃えている。
窓の外には、ちらちらと落ちてくる粉雪。

春になったらもう少し、大人になれるかもしれない。そんなことないかもしれない。
ただ、兄弟三人は、末の弟を見守るばかり。










-----------------------------------------------------



inserted by FC2 system