「うさぎけ2014」


居間のテーブルで、宿題のプリントらしきものを広げて、何やら来地が呻いている。
普段なら、テレビでも見ながら、あるいはテーブルの上のお菓子をつまみながら、本当にきちんと問題を解いてるのか疑わしくなるような適当さで、プリントの解答欄を埋めているところなのだが。
「どうした、どの問題がわからないんだ」
「うえぇー、琳吾兄ちゃん、ちょっと手伝ってぇぇ」
夕飯の洗い物をしていた手を止めて、水滴の滴る指先をエプロンで拭き、琳吾はやれやれと弟のもとへと歩み寄る。
仕草の一挙一動がどこを見てもオカンである。宇佐木家長男、二十五歳。
背中を丸めてシャーペンを握り締めている来地の、目の前のものを覗き込む。
『進路希望調査』。白いB5サイズのプリントには、事務的な書体でそう記載されていた。
「・・・・・・提出期限、今週末か。てことはあと二日か。本当はもっと早くもらってただろう」
「えー、だって面倒くさいし、こんなのよくわかんないよーー」
へにゃり、という擬態語が目に見えそうな様子で、来地はだらしなくテーブルに突っ伏して、握り締めていたシャーペンを放り投げた。
テレビでは相変わらず、くだらないコメディ番組が続いていて、あまり売れてない芸人が、一発ギャグを連呼していた。気が散る。
「だいたいさー。おれ、まだ中二じゃん。まだ受験生ですらないじゃん」
「中三になってからなかなか希望校決められなかったら、慌てるじゃないか」
「えー、どうせ別に、そんなにレベル高い高校なんて行かないよー、おれの成績で行けるところならどこでもいいよー。できることなら受験なんかせずに入れるところがいいよーー」
「こらこら。高校を遊ぶだけのとこだと考えてると、あとあと後悔したって知らないぞ。らい君、将来どんな仕事したいか考えたことあるか」
「仕事ぉー?」
「やりたいこととか、夢とか」
「んーーー」
頬杖をついて考え込むと、やがて来地の頬が、にまにまと緩む。楽しいことを考えているときの顔だ。
「おれさー、将来パティシエになりたいんだよねー、おれスイーツ作るの得意だと思うんだよねー、向いてると思うんだけどさー。
 でもぶっちゃけると、おれさー、オダせんせーみたいな漫画家にもなりたいんだよねー、めっちゃバトルするヒーロー描いてスカッとする漫画描きたいんだよねー。
 というか、おれ海賊王になりたいんだよねー!」
「おーい、らいちー、グランドラインから帰ってこーい現実に」
琳吾が生温かい目をしながら、来地の眼前でぴらぴらと、『進路調査』の紙を揺らめかせる。
「わかってるよー、でも正直まだ、進路なんて何から考えたらわかんないし、自分が何やりたいかなんてわかんないよー。好きなものややりたいことだったら、やっぱりお菓子作りくらいかなぁ」
「たとえばだ、もし本当に、らい君が将来パティシエになりたいと思ったとする。そしたら、まず何から勉強すればいいのか、どうやったら製菓職人になれるかわかってるの」
「んっとね、いろんな有名店のケーキを毎日食べて、味の違いを見極める」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
ため息さえも出てこない、琳吾の沈黙が数秒間。
「ねー、琳吾兄ちゃんはさ、どうしてうちの店継ごうって思ったの」
「んー、まぁ、子供の頃からなんとなくかな。じいちゃんの店、多分自分が継ぐことになるんだろうなーてなんとなく思ってたし。それに好きだったからね。店も、こういう骨董品もさ」
普段家ではおっとりのほほんと優しい顔をしている兄だが、店頭で客を相手にしているときは、仕事をする男の顔になっている。来地はちゃんと知っている。
もともとは宇佐木骨董品店は両親の店で、それより以前は祖父の所有する店だった。
仕入れのためにほとんど家を空けて帰ってこない両親の代わりに、今ではほとんど、琳吾が店の経営を維持している。
兄ちゃん、絶対苦労してるのに、長男だからって仕方なく店引き継いでるのかなーと、正直思わないこともなかった。
好きだからやっている、というのももちろん充分に見てわかることではあるのだが。
「いい機会だ。らい君、一度『こういう仕事をするには』を調べてみるといいよ。パティシエになる方法でもいいし、お店を持つためには何が必要かとか。図書館行ってもいいし、ネットで調べてもいいし、先生に聞いてみてもいいし。
 今までよくわからなかったことが見えてきて、勉強になると思うよ」
なんだか面倒なことになったぞ。進路調査を書くだけなのに、宿題を増やされてしまった気分だ。
だけど正直なところ、仕事をしている兄貴の姿が、普段とは違うかっこよさを持っていることがなんとなく謎だったのだ。





階段を上がって、悠の部屋へ行く。ドアを開ける前からすでに、大き目の音量で流れている洋楽のロックな曲調が漏れて聞こえてくる。
「にいちゃーん」
中を覗き込むと、悠は手持ちのCDをパソコンを使ってデータを写しているところのようだった。
バンドのメンバーに複製して渡すのかもしれない。
「何だよ、俺今忙しいの」
「聞きたいことがあるんだけどさ」
「宿題なら手伝わないからな」
「兄ちゃんって、いつごろ進路決めた?」
ディスプレイを眺めていた悠の目が、きょとん、と瞬きをして来地のほうを振り返る。
「進路ぉ?」
「なんで今の高校選んだの? 家から近かったから?」
「それもあるけど、俺は、バイトOKなところで選んだからなー」
「兄ちゃんの成績だとここしか行けなかったからじゃなくて?」
「・・・・・・ぶっとばすぞお前。いやまぁそれも若干否定はしないけどさ」
「否定しないんだ」
「うるせ。でもさー、やっぱ高校になったらバイトして自分で稼いで自由なことしたいって思ってたし。だからケータイ代も自分で出してるし、バンドして夜遅くなったりしても、兄貴も俺にはあんまし口うるさく言わないだろ。まぁその代わり、あんまし店のことは手伝えてないけどさ」
「そっかあ。ちなみにさ、悠兄ちゃんは、うちの骨董品店継ぎたいとか思ってたりした?」
「んんー、どうだろ。正直それは」
「そうなんだ」
「でも、高校卒業したら、進学するにしろしないにしろ、家は出ようかな」
「ええー」
来地が思いがけず驚いた声を上げたことで、悠のほうが逆に驚く。
「なんでそんなにびっくりすんだよ」
「だって、達巳兄ちゃんは大学生になっても家に住んでるじゃん」
「達巳兄ちゃんは達巳兄ちゃん。俺は俺」
「えーー」
進路の参考に聞こうと思っていたのに、ますますわからなくなってきた。
「だからさー、来地もテキトーに考えてないで、自分が何したいのかくらい考えとけよ。
 勉強したいのか、それ以外のことがしたいのか。早く働きたいのか、それ以外のことがしたいのか」
「それ以外って何?」
「自分で考えろよ、そのくらい」







「達巳にいちゃーん」
すーっと静かに扉を開けると、達巳は画集を開いて読みふけっていた。
アトリエ兼自室の部屋の片隅には、描きかけのキャンバスが立てかけてあった。
机の上には難しそうな本が数冊積みあがっている。大学の教科書かもしれない。
「聞きたいことがあるんだけどさ」
「ん」
「達巳兄ちゃんは、どうして大学行こうって思ったの」
「働きたくなかったから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ、そう」
ぼそり、と静かに帰ってきた返答に、来地はちょっとだけ肩の力が抜けた。
「だよねーーー、おれもさー、実は正直言うと、将来自分が働くことなんて、あんまし考えたくなくってさー。
 大人になったら夏休みないじゃん。遅刻もできないじゃん。
 一限目から五限目まで授業があるだけでもかったるいのに、朝から夜八時まで働くなんてさー。
 ねぇ、大学ってさ、授業ってぶっちゃけけっこうサボれるんでしょ? 夏休みって二ヶ月半くらいあるんでしょ。いいなー」
「・・・・・・・うまく単位とって授業組めばね」
「やっぱおれ、大学進学かなー。勉強はしたくないけど、働くほうが面倒くさいもん」
琳吾が隣で聞いてたら、真面目に考えろと小突かれるようなことを平気でほざいている来地であった。
「・・・・・・・・働き始めたらさぁ」
「うん」
黙って来地の言葉を聞いていた達巳が、ぽつりぽつりと語り始める。画集から目はそらさないまま。
「好きなだけ本読む時間とか、なかなか無いじゃん。勉強できる時間は、今だけかなって。だから、今は血ぃ一滴一滴注ぐような気持ちで毎日本読んでるよ」
来地はきょとんと瞬きを繰り返した。
「勉強するために本読んでるの?」
「ん。だって、勉強するの面白いもん」
「小説とかラノベとか漫画じゃなくても面白いの」
「だよ」
本棚にあるのは、来地から見ればよくわからない美術関連の本、理系の本も文学書のようなものも入り混じっている。
画集や写真集もある。
「中学や高校まではね」
「うんうん」
正直、口数少ない達巳が、こちらからたずねなくても自分から何かを語ってくれるというのは貴重なことなので、来地は懸命に頷いて話を聞いている。
「勉強って、押し付けられてやってたじゃん」
「うんうんうん」
「自分の知りたいこと自由に勉強できるのって、大学生のときだけなんだよね。そんな時間があるのも、そんなツールがあるのも」
「・・・・・・・・・・・そうなんだ」
「正直、もうちょっと勉強できたら、危険物取り扱い管理者の資格とか、爆発物処理資格とか、あとフグ調理師免許も取ってみたいんだけどなぁ」
「・・・・・・・・・・たつ兄、一体、何の達人になろうとしてるの」
「やりたいことがあったら、やるべき」
そういって達巳は画集のページをめくりながら、口をつぐんでしまった。
「兄ちゃん、おれさー、まだ働くことって、よくわかんないよ。勉強したいことも特に無いしさぁ」
「・・・・・・・・・・働きたくないなら、働かなくていいと思う。ニート」
「ダメじゃんニート」





翌日学校に行って、中学校の図書館の本を探してみた。
何を探せばいいのかもよくわからない。
『なりたい!美容師』
『人を助ける仕事』
『教師になりたい人の本』
『キラリ☆職業』
よくわからないピンとこない感じの、「〜になるには」本が並んでいる。
来地が頭を抱えていると、同じクラスの女子を図書館の席の片隅に見かけた。
ふわりとしたツインテールを結って、ツンとした目つきをして恋愛小説の活字を目で追っている女子生徒が。
「ありさぁー、いたいた、ちょっといい?」
満面の笑みで駆け寄って行くと、亜梨紗がぎょっと肩を跳ね上がらせた。
声が大きい。目で語るけれども来地は全然気にしていない。
「・・・・・・なに?」
「進路調査って、もう出した? おれ、なんかあんましわかんなくってさー」
「来地くんの成績なら、○○高校か、それよりもっと上でも行けるって先生言ってたよ」
「えー、あそこのブレザー好きじゃないもん。それにあんまし勉強したくないから、レベル高いの高校行きたくないなぁ」
「・・・・・・・」
「亜梨紗はどこ書いたの?」
「一応、◇◇高校」
亜梨紗が答えたのは、学区内でも一二を争う偏差値の進学校だった。彼女は学年の中でもかなり成績上位なので、それでも妥当な所なのだろう。
「へー亜梨紗すげーなぁやっぱり。頭いいもんね」
「来地くんも真面目にやったらいいのに、さぼってるだけでしょう」
「勉強やる気無いんだもん、しょうがないしょうがない」
「・・・・・・・でもね、私も本当はちょっと迷ってるんだ」
「え」
亜梨紗の物憂げな瞳が、少し下向き加減になっている。
「本当はね、お母さんみたいな美容師になりたいなって、思ったりもして」
「ああー、おうち、美容院だもんね」
「でも、私が美容師になりたいって言ったら、笑われるかもしれない」
「えーなんでだよ」
「なんか周りはね、猫井さんは頭がいいから、当然◇◇高校行くんだよね、って思ってるみたい」
「そんなの関係ないじゃん。頭悪かったら頭悪い高校にしか行けないだろうけどさ、頭良いなら頭良い高校行かなきゃいけない、ってわけじゃないんだし」
「それがね、そういうわけにはいかないの。塾とかでも、成績良かったら期待されちゃうじゃない?
 成績良くない子が上を目指したら『頑張れ』って一生懸命励ましてもらってるのに、私が、少しレベルを下げた高校の名前を希望に書いたら、『なんでここなの?』『もっと自信を持ちなよ!』って言われるのよ。
そしたらなんだか、自分の成績にあったところしか行けないかなぁって」
「うーーん、おれにはよくわかんないなぁ」
「そうね。こんなこと、正直、来地くんにしか言えないかもしれない。ごめんね変なこと言って。こんなことで悩んでるって、私、誰にも言えなくて。
 レベルの低い高校に行きたいなんて・・・・・・他の人が聞いたら、それって自慢なの? ってひがまれちゃうもの」
「そーーかなーーー。おれ、そういう女子の心理わかんないなぁ」
亜梨紗が、困った表情をしながら小さく笑っていた。
大人びていて思慮深くて、その割りに内気で自分の意見をなかなか言えない亜梨紗の性格では、来地と正反対で、来地には理解できない悩みもいろいろあるようだ。
それが些細なケンカのもとになったり、たまにはこんなふうに和んで、励まされたりもする。
「でもさ、おれ、亜梨紗がもし美容師になったらかっこいいだろうなって思うよ。亜梨紗んとこのおばさん、かっこいいもん」
「まぁうちのお母さんはね、ちょっと若作りで気が強いだけだけど・・・・・・」
「だから、もし亜梨紗に夢があったら、おれ、応援してるよ! おれなんてさ、自分のやりたいことなんてわかんないしさ、パティシエになりたいって言ったら、兄ちゃんに呆れられたし」
「うん、呆れるでしょうね。どうせ、ケーキ毎日食べたいとか言ったんでしょう」
当たりだ。そのとおりだ。
「あ、そうだ。骨董品屋ってどうやったらなれるか、調べようと思ってたんだ。本が見つからなくってさ、ちょっと手伝ってもらっていい? 亜梨紗、図書委員だろ」
「骨董品ね。美術品とかの本の棚かなぁ。ちょっと見てみるね」
骨董品の目利きになるには。
正直、来地にはまだ、仕事がどういうものかもよくわからない。
でも、当たり前のようにすごしてきた自分の家の家業が、どういうものなのか、どういう手順を得て今現在にたどり着いたのか、知ってみたかった。
美術品の目利きができるようになるには。
骨董品の知識。
接客の交渉。
仕入れに商品の手入れ。管理。
「難しいよなーーやっぱり」
「こういうこと、お兄さんはあんまし教えてくれないの?」
「おれがまだあんましわかってないからだと思う。うっかり高価な商品に傷とかつけたらいけないから、あまり店にあるもの触っちゃダメだよって言われちゃうんだ。
 悠兄ちゃんや、達巳兄ちゃんは、わりかし手伝ってるのになー」
「じゃあ、骨董品の扱い方の勉強からしないとね。きっと、お兄さんは少しは勉強したから、お店のものに触ってお手伝いができるんだと思うの」
「あ・・・・・・・・」
ふと、思い当たることがあった。
達巳の難しい書籍ばかりの本棚には、美術品の本もあったはずだ。もしかしたら、関連する本だったのかも。
そっか。勉強するっていうのは、そういうことなのか。
「それにね、悠お兄さんは、アルバイトしてるから、接客だったり重い荷物を運んだりすることにも慣れてるんでしょう」
「そっかーー・・・・・・・・・・」
「うちのお母さんも、お姉ちゃんもよく言うんだけどね、
 自分のやりたい仕事は、何か仕事をしてみないと、自分がどんなことなら向いてるかなんて、わからないんだって。
 つらくってもすっごく楽しいこともあるし。
 自分がやりたいと思ってたことや得意だと思ってたことでも、趣味と仕事はやっぱり全然違うんだって」
「へぇぇぇ」






「ただいまー」
いつもの、宇佐木骨董品店。
ドアを開けると、ドアベルが涼やかな音を立てる。
「おかえり、来地。進路調査は出してきたか」
「兄ちゃん、あのさ」
改めて、店の中を眺めてみる。
よくわからない壷。
錆びた金属の置物。
年季の入った家具。
・・・・・・・・・・・・まだよくわからないものばかりだけど。
「おれさ、少し骨董品の勉強する!」
琳吾の目が、丸い眼鏡の奥で、「お?」と意外そうに瞬いていた。




















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