底の見えない、深い闇の中に居た。
血の粘りが己の体にまとわりついて、染み込んでいく。
斬り殺した人間の血糊が、刃紋を淀み曇らせていく。

あの美しく磨き上げられた、銀の小さな月のような刀身にはもう二度と戻れないのだと知っていた。


だけど。


人間の下賎な欲望にこの身を穢しながらも、澄み渡る鋼の輝きに憧れていた。


漆黒に塗りこめられた夜の闇の中に、幽かな星明りを探して道しるべとするように。


ほんの幽かな光を探そうとしていたんだ。




☆     ☆    ☆



目の前に、血塗れの女の屍体が伏していた。
星の無い夜は底の見えない深い暗闇を抱き、奈落のようだ。土の匂いと枯草の匂い、むせ返るほどの血の匂いが、湿った夜風の中に満ちていた。

目の前に伏している、屍と化した若い女。これは、先刻まで己の主であった女である。
その前は、己の主だった男の妻であった女だ。


……ああ、またこの夢だ。
小夜左文字は、冷え切った心地でこの光景を眺めていた。
魂に刻み込まれた、夜毎繰り返し呼び起こされる深い記憶。


何度この光景を繰り返し思い起こせば、自分は気が済むというのか。
幼い子供ではないというのに。
それどころか人ですらない。自分は、刀だ。
歯がゆさに魂が疼く苛立たしさを感じながらも、繰り返される記憶の中の光景は、忌まわしい一夜の劇を再生し続ける。


夜の闇の中のどこかで、赤子が泣いている声が聞こえる。
これは正しい記憶ではない、と小夜は思う。
山賊が通行人を殺して奪うような野道で、こんなにわかりやすく大声で乳飲み子が泣いていたりしたら、すぐに見つかって切り刻まれてしまうだろう。
もしかしたら、殺された女の記憶――あの子供の母親だった、この女の記憶の中にある泣き声なのかもしれない。


そして、自分の次の主は、この若い母親を殺した、獣のような山賊の男である。
刀として生まれた自分は、手にした人間の掌から、その人間の持つ魂の色を感じ取る。
この男には、下賎な欲望と獣のような本能の、ただ濁りきった魂の姿しか感じられなかった。
どろりと淀んだ、罪人の穢れが自分の内側に流れ込んでくる。


どこかで子供が泣いている。ずっと、泣き続けている。悲鳴のような、小さな子狼が鳴くような声が。


―――この泣き声が、きっと今も自分を呪い続けているのだ。



許せない許せない許せない許せない
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い

殺せ殺せ殺せ憎い憎い憎い殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いコロセコロセコロセコロセ


ッァァアアアアアアアアアア……――


獣の咆哮のような叫びが、夜の闇ののしかかる虚空に響き渡る。


あれは誰の断末魔だ。


誰の。




そしてまた、小夜は――小夜左文字と銘打たれた刀は。
うんざりと沈鬱な魂を、己の中の闇に沈ませる。


ああ、また何度も見たこの夢か、と。




☆      ☆      ☆



閉じていた目を開いて、そこが夢の中ではなく本物の夜であることを確認する。
ならびに、そこが血の匂いの立ち込める山道ではなく、精錬とした空気の満ちた、夜の本丸の一室であることを確かめる。
畳の匂いと、障子に透ける月明かり。
自分の両の掌を眺めて、今の自分が鋼の一振りではなく、人間の少年の姿をした存在であることを再度確かめる。
審神者を名乗る今の主から、与えてもらった姿だ。


「小夜、うなされてはおりませんでしたか」


ぽつりと雫が毀れるような声が投げかけられて、小夜は振り返る。
部屋を仕切るふすまが僅かに開いて、今の主、審神者がこちらを覗いていた。
審神者という彼は、神社の神主が着るような白い狩衣と黒い烏帽子を身に付け、狐の面を付けて顔を隠している。
己の所有する刀剣に、素顔を見せてはいけないのが審神者なのだと言っていた。
小夜は己の主の素顔も知らないし、本当の名前も年齢も、男なのか女なのかも知らない。格好は男の着物だが、声は幾分高かった。
ただ、主の声も一挙一動も、何があってもこの人に逆らいその手を離れることはできないと強烈に引き付けられる魔力のような何があった。

その主が、わずかに微笑みを含んだ穏やかな声音で、小夜に言葉を投げかけていた。

何と返事を繋げようか考えているうちに、小夜の胸の奥から毀れてきたのは、重いため息だった。
人間の呼吸という仕組みは不思議だといつも思う。
自分が息をしようと思っていなくても、勝手に喉から溢れてくるのだから。


「主殿は、僕のような刀が恐ろしくはないの」


唾を吐くような心地で、小声で問いかけると、主はわずかに首を傾げた。
面の下で微笑(わら)っているのが手に取るように感じ取れた。


「僕は山賊の持ち物だった刀だ……」


冷たく低く響く声が自分の喉から紡がれてきて、そんな己の声音に小夜は心が一層冷える心地がする。

この己の中の深い淀みを、どうやって拭えばいいのかわからない。
きっと、この血のぬめりのような重苦しい心地は、永久に晴れることはないのだと知っている。

他の刀達と比べると、なんて下卑た汚らわしい場所に、長くその身を所有されていたことか。
今の主、審神者の手元に集まる刀は自分だけではない。多くの刀が自分と同じように、審神者の力によって自らの意思で自由に動く、人間と同じ姿を与えられて、人間と同じように言葉を交わす。
刀達が瞳を輝かせながら、前の主の自慢話をしたり、あるいは哀しげに目を伏せたりしているのを見る度に、小夜は己の抱える淀みが一層どろりと重く曇っていくのを感じた。
ああ、自分は、皆とは違う。と。
名も無き無銘の刀よりも、欲望に穢れた獣の所有物だった自分の方がなお酷い。

そのどろりと重い淀みに呼応するかのように、脳裏に何度も繰り返し響く声がする。

復讐だ。復讐をするのだ。
憎い。殺せ。恨みを晴らせ。僕の仇はどいつだ。

ああ、この声は。
暗い闇に閉ざされたあの夜に、群れからはぐれた子狼のように泣き続けていた、あの子供の恨みの声だ。


「主殿、僕には、他の皆の主君が刃に教え込んだような正義も、天下人の求め焦がれた名声も、何も無い。ただ、人間の醜い欲望と恨みと、血塗れの復讐劇しか染み付いていないんだ」


それでも主殿、貴方は、僕を貴方の正義のための刃として使うことができるのか。と。
小夜は、炎に炙られるような鮮烈な掌の熱を覚えている。

あのとき泣き叫んでいたあの子供は、母親を殺され、父親の唯一の形見だった刀を奪い取られた恨みを、決して忘れることはなかった。
親の仇を討つという憎しみのために、小夜を――小夜左文字という刀を、虎視眈々と待ち続けて刀を磨く研磨所に身を潜めていた。

――見つけた――

山賊だった男の手から、わずかにその身を離れていたとき。
ギラリと鋭く光る眼が、阿修羅のような憤怒に燃え盛る炎を眼光に宿して、自分の銀色の刀身に映りこんだのを覚えている。
あの時、この体を強く強く握り締めた手が、とても熱かったことが忘れられない。

――この刀だ――

人間は獣になれる。
母親の腕に抱かれて無垢に泣いていた赤子でさえ、ひとたび憎しみに我を忘れては、鬼にも獣にも修羅にもなれるのだ。
そして、熱心に磨き研ぎ上げた小夜左文字の刀身を眺めると、その手は柄の拵えをしっかと握り締め、小夜の銀色の刃を、元山賊だった男の汚い腹へと沈ませたのだ。

小夜はもう、以前の自分の持ち主だった山賊の男の顔も、その山賊を殺して親の仇を果たした、研磨師の青年の顔も覚えていない。
ただ、審神者の力を借りて、今のこの青い袈裟を着た少年の姿の形を取ったとき。
ああ、あのときの主もこんな目をしていたな、と、水鏡に映る自分の姿を見て思い出した。

自分の刀身に触れられたときの、あの焼け付く炎のような激しい熱が、消えることのない憎しみの叫び。
復讐を誓ったあの子供の魂が、小夜左文字の刀身に乗り移って、今の小夜の魂の姿形になってしまったのだ。


消えることの無い、あのときの心の声が、今も自分の曇った鋼の内側から叫び続ける。


憎い。

憎い。


許せない許せない許せない許せない
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い

殺せ殺せ殺せ憎い憎い憎い殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いコロセコロセコロセコロセ






復讐は果たされたはずなのに。

ずっと、この声が消えない。自分の鋼の中に、憎しみの強い思いが染み込んでしまった。

永遠にこの淀みは、この心は晴れることはないのだ。







ふと。気付くとほんの幽かなぬくもりを肌に感じた。
主の審神者が、小夜の頭に掌を載せて、優しく撫でていた。


「そんなに物憂げなため息ばかりついていないで、泣きたいときは一度、声をあげて泣いてみなさい」

「……泣く?」



☆        ☆         ☆



そんなことばかり考えて夜を過ごしているのなら、一人でちょっと遠征にでも行ってきてくださいな。と。
半刻程度のごくごく近場の資材集めを申し遣わされた。


しっとりと夜露に濡れた木の葉が茂る野道で、歩くと地面の砂利がザクザクと音を立てていた。


「憎しみばかり見つめていると、夜の星が見えなくなってしまいますよ。一度夜露で、己の眼を洗い流してきてみなさい」


主は小夜にそう告げた。
よく意味がわからなかった。


確かにその日、夜空は澄んでいて、星が沢山見えていた。この星空の下に戦場が広がっているなんて思えないかもしれない。

「玉鋼か木炭か何か……落ちていないかな……」

口先で言葉に出して呟いてみても、目はついつい足元よりも頭上に向いて、艶やかな漆塗りに銀粉をちりばめた様な天空を眺めてしまう。

己の眼を洗い流してきなさい。
そう告げた審神者の言葉の力が、小夜の視線を夜空に引き寄せているのかもしれなかった。

小夜の記憶にある夜よりも、星の見える夜空はずっと、重苦しくはなく、むしろ澄んでいて、心地の良い空気だった。
血の匂いのしない夜もある。
肌を撫でる冷たい夜風に、己の刀身が磨かれるような気がした。


足元に踏みしめた砂利の中に、きらりと何か光るものを見た。
小夜はそれに気付いて、拾い上げようとして手を伸ばす。


「あ…………」


玉鋼の小さな塊かと思ったが、手に触れてそうではないと気付いた。
それは、砕けた刀身の一部だった。

一つ、欠片を拾い上げると、すぐそばに一つ、また一つと折られた刀身の破片を見つけた。
いつ頃の戦で壊された刀だったのか、どんな刀だったのか、元の姿はわからず、くすんだ銀の破片に目をこらしても、銘のようなものは見つからない。
ただ単に今は、何の思念も魂の宿りも感じられない、鋼の残骸となった、刀剣の成れの果て、屍となった刀剣の姿だった。


刀とて、修復の仕様が無いほどに激しく打ち砕かれたら、その魂は死ぬ。
それは小夜も知っている。
だけどその刃の屍は、小夜が思っているような刀剣の最期と少し違っていた。
血塗れの戦場でボロボロに崩れて朽ちる刃ではなく、毀れた星の欠片のように、鈍い銀の輝きを保ったまま、夜露にきらめきながら静かに点々と散らばっている。
小夜の掌に載せた刃の破片は冷たく、拾い上げた指先が夜露に濡れた。

――刀が、泣いている。

夜露をまとって散らばる、刃の残骸に、小夜はそう思った。
一度泣いてみなさい、と主が言った意味がわからなかった。
人の姿をしているとはいえ、自分は刀だ。人と同じ感情なんて持たないと、そう思っていたのに。

打ち砕かれた刃の残骸の、星明りの下で夜露に濡れてきらきらと輝いている姿が、とても綺麗だと思った。

気が付けば、自分の頬にも、掌にも、冷たいものが毀れているのに気が付いた。
違う、これは夜風が運んできた、ただの露の雫だ。
そう自分に言い聞かせたが、この冷たさが心地がよかった。
冷たい雫が心地いいと、そんなことを思っている自分の心に戸惑っている。

掌の中に散らばる、鋼の残骸が、触れ合うと鈴の音のように打ち合う音を立てて、とても安らかに見えた。
血の匂いも腐敗した匂いももう触れずにすむ、河原の小石のような、刃の屍。


――……ああそうか、こんなふうに打ち砕かれてしまえば、きっと自分も、もう誰も恨まずにすむんだ…………


そう思ったときに初めて、ほんの少しだけ、自分に染み付いている血の匂いが濯がれたような気持ちがした。
自分の中の淀みはけっして晴れることはない。永遠に消えない。
ならば。
血の淀みの中をこのまま臆することなく突き進んで、己の刃で他の曇った刀剣を砕き続けて、そしてその成れの果てに、自分自身もいつか砕けてしまえたらいい。
人の血に濡れることが、どうしても刀の宿命であり、もって生まれた本分だというのなら、それをまっとうするのも決して悪くない。

そしていつか、自分の刀としての性分を貫いて、その行き着く先に、この刀の残骸のように自分も粉々に打ち砕かれてしまったのなら。
ついに自分の中の血の淀みは、毀れる砂のように崩れて姿を変えて、穢れた憎しみから解放されるのかもしれない。


憎い憎い憎い、殺せ殺せ殺せ。
復讐を求める、己の内から響く声はずっと消えないけれども。


だけどそれが、僕の刀としての魂だ。
















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(2015/2/9)
刀剣乱舞にはまって小夜ちゃんこじらせちゃいました。

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