どうして物事は、思いどおりにいかないものなのだろう。まるで掌で崩れゆくガラス細工だ。美しい破片に目を奪われながら、瞬く間に鋭い牙のように、掌に突き刺さる。
失ったものが戻ってくるならば、貴女は何を望むだろうか。
仮にこの世界に名前をつけるならば。
『儚』。
玩ばれて希望が尽き果てた頃に、闇に堕ちるがごとく深く深く眠ると良い。




「マイスター、朝ですよ、もういい加減起きてくださいよう」
「ああ、無駄無駄、この人は一旦ソファーで寝込んだら起きやしないよ。シアン、掃除だったら他から先に片付けよう」
「そうは言っても、カーマイン、マイスターが目を覚ましてくれないと、この研究室なんて、どこもかしこも散らかりすぎてて、どこから片付ければいいのかわからないじゃないの。うっかりとあたしが手を触れていいものかどうかも・・・・・」
 ごそごそと話し合う囁き声が聞こえて、深いまどろみの底に沈んでいた思考が、現実へと引き戻されえる。
 聞こえてくるのは、若い少年と少女の声。普段からよく聞き馴染んでいる助手らの声だ。もっとも、この二人以外に、この研究所に入ってくる人間がいるわけでもないが。
「マイスターがお休みしてる間に片付けておかないと、怒られちゃうかしら。何も仕事をせずサボってましたって言ってみたら、どんな顔されると思う」
「勝手に机の上や瓶の並び順をいじって、勝手に動かすほうが怒られるような気がするなぁ。ここは台所で食事の準備でもしておくほうが無難じゃない」
 毛羽立った毛布を引っ張って、寝返りを打つと見せかけて少し体の向きをずらした。薄目を開けると、鮮やかな青いドレスと毒々しい紅い衣装の二人が並んで立っているのが見えた。
「こんなに机の上がごちゃごちゃなのに、この隙間に料理のお皿を並べるっての? 食欲無くなっちゃうわ。サラダの中に削った金属片が入り込んでしまいそうな気がする。それでも食べたい?」
「そういうんだったら、マイスターのコーヒーカップの中にインクでも混ぜておこうか。ドリップするとき間違えましたって言って。そしたらさすがにあの人も、もう少し机の上を片付けようって気になるんじゃない?」
「おーい、寝てると思って好き勝手言ってるがな、起きてるぞ、私は」
「ひゃっ」
 声をかけると、わざとらしく肩を跳ね上がらせて、二人そろってこちらへ振り返った。赤と青で対になっている彼らは、同時に私の寝そべるソファーのもとへと駆け寄ってくる。
「おはようございます、マイスター・カゲ。といってももう昼過ぎですけど」
「おそようございます、偉大なるマイスター。お目覚めのお飲み物をお持ちしましょうか」
 体にまとわりつく気だるさを振り払うように、のそりと体を起こして、顔にかかる髪をかきあげた。前髪が顔にかかると邪魔で仕方がない。しかし切るのも面倒だし、髪を縛ることすら手間に思えて、いつもそのままにしている。
 場合によっては、シアンが束ねてくれたりもする。ただし、うっかり任せきりにしようものなら、こいつは、私なんぞの髪にいつのまにかリボンを編みこんでいたりする。身なりや髪がだらしないのも見苦しいかもしれないが、私のような壮年の男が可愛らしいリボンなんかつけて、一体誰が喜ぶというんだ。まぁ、誰も見る者はいないんだが。
「マイスター。お召し物がしわしわです。お着替えになりますか」
「いい、適当にしておく」
「お飲み物はいつものコーヒーでいいですか」
「インクを注がないと約束するなら、そうしてくれ」
「ちぇっ、聞こえてたか」
「ついでにその舌打ちもしっかりと聞こえているよ、カーマイン。お前の好物の砂糖菓子に、砂糖と間違えてミョウバンをふりかけておいてやろうか」
「僕が大変悪うございましたマイスター、本当に勘弁してください」
「わかればよろしい」
 すぐに並々と注がれたコーヒーが運ばれてくる。できるだけ濃いほうが良い。毒のように苦ければ苦いほど良い。黒々と炭を溶かしたようなコーヒーの色を眺めて思わず笑みがこぼれる。こういった些細な日常の中に小さな至福があるというもの。舌を突き刺すような苦味が、頭の回転を目覚めさせてくれる。
「マイスター、水晶細工はできあがったんですか」
「ああ、そこそこな。だがまだあれでは気に入らない。輪郭がいい加減すぎる」
「石英を削って重ねて、とても美しいですね。薔薇の花みたい」
 戸棚から取り出した砂糖菓子を、そっとコーヒーのソーサーの横に添えて置く。私はいつも砂糖は使わないが、あとでカーマインがおやつに食べると知っていてわざわざ用意するのだ。
 そしてシアンは、散らかったテーブルの上を片付け始める。作業中のものは触れないようにしているから、私がほったらかしにして薄く埃を被り始めている辺りから手をつけている。正直、自分でも何を置いているのかわからない。動かしても特に問題ないはずだ。
「この前は金メッキでしたよね。なぜ今度は水晶にしようと思ったのです?」
 同じく私に声をかけながら、いそいそと働き始める助手がもう一人。赤い髪の彼は、コーヒーの次は昼食の準備を始める。テーブルの隙間の空いたところにクロスを敷いて、水差しを運んでくる。私がものを食べるときは気が向いたときだけだから、先にシアンと二人で食べ始めるのだろう。あとは適当に黒パンでも置いていてくれたらいい。胃に入れば何も変わらないものに、そんなにこだわるつもりはない。
「水晶な・・・・・・。まぁ、ダイヤモンドよりは手に入れやすい」
「はは、さすがのマイスター様も、こんなに粉々に砕いてごちゃごちゃ細工を作るだけのダイヤモンドの塊を手に入れるほどの甲斐性はないか」
「うるさい、金の問題ではない、仕入れルートが面倒なんだよ」
 水晶、黒曜石。
 土に石。
 鈴に鉛に、そして、砂金。
 これでは不十分だ。こんなもの、完全ではない。
「そうそう、ダイヤといえば」
「どうした」
 窓枠を乾拭きして、花瓶の水を変えていたシアンが、ふと顔を上げてこちらを見た。
「昨日ね、久々に街に出たときに、王宮の噂を耳にしたのよ。なんでも、ミラジエ王女の婚約が決まったんですって」
「へぇ」
 やれやれ。若い娘というのは。どうしてこうも、世の中の噂話が大好きなのだろうね。
 マッチを擦って、アルコールランプに火を灯す。
「え、王女サマは他国に嫁ぐの? てっきり、パレミア妃のように、女王になると思ってたのに」
「さぁ、でも婚約と言っても、実際に婚姻を結ぶのはまだ先になるんだって話だけど。よくわからないわ」
「それって何、政略結婚みたいなものなの」
 ほとんどこの研究室から外に出ることがないカーマインは、シアンの聞いてきた話に、物珍しげに頷いている。彼にとって世間を知る手段は、私の話と、シアンが聞いてきた外の世界の噂話と、書物や新聞を読んで得る知識ぐらいなものだ。もっとも、新聞は月に一回程度まとめて届くし、書物は私の持っている難しいものしかない。ただ、少々自分で物事を考えることが苦手なシアンよりは、カーマインのほうが賢く世間を知っているということもある。
「きっとさ、早めにこういう婚約を公表しておくことで、近隣諸国が王座を狙って言い寄ってくる前に先手を打ったってことじゃないかな」
「あ、なるほど」
 白い鉱石が、青みがかった炎に炙られて、平たい小さな皿の上でゆっくりと溶けていく。
 くだらない。
 王宮の話など、私には縁のない話だ。



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