・第十五章








カツン カツン カツン カツン



静かに歩く足音が、暗闇の静寂の中に響く。
まるで、闇という生き物の胎内で、鼓動の音を聴くような。

階段を降りて、地下の細い路地を行く。
これは、血管。
息を潜めて、更に奥深くまでもぐりこむ。







記憶の中で 声がする







誰 あの声は誰
逃げられない 逃げられない 言葉の螺旋






耳に張り付くような猫撫で声
肌を嬲るような寒気が走る





やめて
もう何も言わないで
聞きたくない・・・・・・








  『だって、お前が悪いんだろ? お前の責任だよ』

  『・・・・やめて』





  『あいつを殺したのはお前だよ』











そして 世界が砕け散る音
悪夢の底で閃く 紅蓮の闇 ・・・・・・






















コツン コツン コツン ・・・・・・ ・・・



ドアをノックするような
時計が秒針を刻むような 足音

頭の片隅を叩くような
            鼓動



「リズ」




軽く肩を揺さぶられて、あたしはようやく、意識を取り戻した。
カウンターの台の上に突っ伏して、張り付いている頬を剥がして、のろのろ起き上がる。
濃いウイスキーの香りがする。あれ? これ、割らずにそのまま飲んでたっけ。
グラスに少し残ったまま。さすがにこれは、強いわ。


ぼーーっとした頭のまま、小さくうめいて・・・
・・・・・・・もう一度、突っ伏した。


また同じように名前を呼ばれるけれど、返事はしない。
何も聞こえない。


肩に乗っていた手が、少し迷いながら、軽く体を揺らしていた。
やがて離れて、ゆっくり立ち去っていく足音がする。


でもそれは気のせいだった。


次に肩に触れたのは、そっと乗せられる、タオルケットの感触。



「・・・・・・・ありがと」



顔はあげないままで、声だけで答えた。
見なくてもわかる。
小さく微笑する、サフラの表情があたしを見下ろしている。



カタン、カタン、と、出しっぱなしのグラスを片付ける音。まるで子守唄みたい。
こぼれたお酒を拭いている。
サフラの、白くほっそりした指の、桜色の爪がちらりと見えた。



「本当は、酔ってないでしょう? リズ」



組んだ腕の上に顔を乗せたまま・・・視線だけ、ちらりとサフラのほうを向く。



「わざわざこんなにお酒飲まなくても、疲れたときは、ちゃんと休まないと。心も、体もね」



違うよ。
酔いたくなったのは、本当。

忘れたくなるんだ、いろいろと。
何も考えたくない。


・・・・そんなときにいくらお酒飲んだって、何の薬にもならないってのはわかってるんだけども。



焙るような悔恨ばかりが、気だるく全身を焼いていく。




「・・・大丈夫。酔いは覚めたよ」

「・・・そう。よかった。何か、口直しにお茶でも飲まない。さっぱりした、温かいものでも」

「お願い・・・・・・」

「飲みたいものある?」

「まかせる」

「うん、待ってて。その前に、一口お水でも飲んでてよ。・・・リズ、ずいぶん疲れた顔をしてるよ」

「・・・・・・・」




まだ何も 考えたくない


・・・・・・あれ? どうしてあたし、ここにいるんだっけ。





「サフラ・・・・・」

「うん?」

「怪我、しなかった・・・あれから」




ぼんやりとサフラを見ると、彼女は、少し首をかしげて微笑む。




「今日のこと、まだ気にしてるの? リズのせいじゃないのに・・・」




おっとりとした口調。優しい声色。



「大丈夫よ。スタリオに助けてもらったから、私も、ユーナさんも大丈夫」

「スタリオは・・・何か言ってた?」

「ううん。私に対しては無口だもの、あの人。ユーナさんを連れて帰ってくれて、私は、ギルに送ってもらったから。平気」

「・・・そう・・・だよね」




肩から力が抜けていく気分。




「まだ・・・こういうことが起こるんだよね・・・どうしてだろう」




薬のせいで正気を失くした人たちが、血の匂いを求めて、他の誰かを傷つける。

赤い蜜は、悪夢の蝶が求める、薬の代わり。




「そんな顔しないで・・・。リズのせいじゃないよ・・・」




差し伸べられた手が、うつむいているあたしの髪を撫でていく。優しい手。




「私が、リズと最初に会ったときのこと覚えてる?」




あたしが落ち込むと、サフラは、よくこの話を口にする。
覚えてる? って。そう言って。



そのたびにあたしの中に、幻灯が閃くように、色あせることの無い記憶が映し出される。




「私は、リズを信じてるよ・・・。あのときから、今までずっと。これからも」




あたしとつながる、温かい、手。




「だから、そばに居る・・・。リズがきっと、壊れかけてしまったこの街の薬になる。そう信じてるから、
 それまでずっと、私はリズの隣にいるから・・・。
 心が折れてしまわないで・・・。負けないでね」




まっすぐにあたしを見つめてくる、翠の瞳。その奥でゆらゆらと揺らめく、柔らかい光。



サフラの声はいつも、あたしが忘れてしまいそうになる大切なことを、魂の中に揺り起こしてくれる。




あたしでも。

誰かの傷を癒せるのなら。
誰かの苦しみを消せるのならば。



あたしは・・・
どれだけ自分が傷ついたってかまわない。



今ここに居るあたしは、これまでに誰かが助けてくれた自分。
だから、あたしの安らぎは、すべて、誰かが与えてくれたもの。

目の前で傷ついている誰かは、きっと、あのとき誰かに助けてほしかった自分。
だから、助けよう。あたしにできることがあるならば。




助けてくれる誰かがいなかったのなら、今、あたしはここにはいない。どこにもいない。




ずっと・・・あたしの中に、弱い誰かが、救いを求める声が響いているの。
それは過去から聴こえるのか、まだ見ぬ未来から届いてくるのか、わからない。




でも、あたしは・・・知っているよ。




誰にも助けてもらえない言葉が、どれほど悲しい声になるのか。





「うん・・・・・・ごめんね・・・・・・・・・・・」




深く息を吐いて・・・・・・・ぽつりと、つぶやく。
記憶の中で、これに重なる声が聴こえる。




    「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・・・」






いくら吐き出しても吐き出しても、胸の中の苦しみが薄れることは無い。
重々しい波のような・・・・・・言葉。



・・・・・・・・・・・どうしてあたし、ここにいるんだっけ?




「どうして謝るの」

「・・・・・・・気持ちの問題かな」




謝りたくても謝ることさえできなかった人がいた。
届けることさえ、できなかった。




「だから・・・・・・あたしが治さなきゃいけないんだ・・・・・・・」




治したかったのに
助けたかったのに


できなかった



それどころか、あの薬のせいで・・・・・・・




「リズ・・・・・・やっぱり少し酔ってると思うよ。もう、あまり考え込まないでね・・・・おやすみなさい」




引き寄せられたタオルケットの布地の感触が、肩にそっと触れる。




「大丈夫だよ・・・・・・・・・・」




あたしの声は、届いたかな。




 カツン カツン  カツン   カツン  ・・・・・・・





遠ざかっていく静かな足音が、あたしのまどろみの中で揺れている。





「待って・・・・・・サフラ」





ぴたり。
立ち去りかけた足音が、止む。




「もう少し、話・・・・・・つきあってもらってもいい?」





薬が欲しいの。
薬が。



この胸の空しさを埋める薬。



それはきっと。

誰かの声。
誰かの手。
誰かの言葉。
誰かの熱。

自分とつながる、誰かの存在。





「もう少し、何か飲む?」




記憶の中の不協和音をかき消す、誰かの鼓動。




「お酒はもうそのくらいにしておいて、お茶にしよう?」




額をさするように前髪をかきあげる。
首は小さく横に振る。


もっと彩が欲しい。
暗闇の中でキラキラ光をこぼす、甘く芳しい雫。
悪夢の蝶に敵う幻想。



「マルガリータ・・・・・・」



唇は自然と、求める味を覚えている。
テキーラと、ホワイトキュラソー、レモンジュース。
グラスに飾るスノースタイル。




サフラは、困ったように小さく微笑んで、グラスをまた一つ取ってくる。
そして、お酒を注ぐ。




他に何がいいかな。今の気分に合う彩と味を思い浮かべる。
オレンジを飾るテキーラサンライズ。グラスの内側に注ぐ、濃い橙色のグラデーション。
ジンジャーエールとレモン・・・これは少し度が強いかな。悪魔の名前を持つお酒。
ジンとレモン、砂糖と卵黄で甘く仕上げる、ゴールデンフィズ。
ブランデーとコーヒーリキュール。ホワイトキュラソーとレモンジュース。
クレームドカカオに、生クリームとレッドチェリーで飾りを添えて。



何がいいかな。
何・・・・・・・・。




「あたしに、何ができるだろう・・・・・・・」




目の前にグラスが差し出される。
カクテルグラスに注いだ、淡い香り。



「はい、リズ」



薄い白色の半透明な液体が、静かに揺れている。



「私も少しつきあうよ」



何度、こんな時間を繰り返しただろう。
何度、こんな時間がずっと続けばいいと思っただろう。


喉の奥がつっかえたような心地。
吐き出したくても、胸の中から出すことができずにいるもの。
ずっと抱え続けている。・・・・・・何年もずっと。

あたしの時間は凍ったまま。
動かないことを恐れていたんだろうか。
それとも、溶けて消えてしまうことが・・・・・・
消えてしまうことが、きっと、何よりも怖かった。
そうね。いつか、溶けてしまうのかな。
誰かの手のひらの熱に救われて、凍った時間が動くのならば。
この胸のつかえも取れるかもしれないのに。


ひらひらと舞う蝶の羽
花のようにも雪のようにも
この世界を惑わせて
光を砕いて降り注ぐ
指の間をすり抜けて
ゆらゆらと泣くつかの間の幻


一滴の酔いに助けを求める
私をここから連れ出して
たどり着くことのできない世界に行きたい
そうすればきっと私の唇は
望んでいた歌をつむぐ




詩の一節でも唱えるように。
ぽつり、ぽつりと。
今日の出来事を語って聞かせる。


幻を見て消えていった人がいる。
赤い蜜に狂った人がいる。
恋人を見失った美しい人はいまだに闇に囚われたまま。
ぬるい雨がこの街を錆びつかせている。


どうすれば
どうすれば


コノ 世界 ハ 癒 サレル



「リズのせいじゃないよ・・・・・・・」




サフラは微笑む。


あたしは、サフラが注いでくれたカクテルグラスに口を付けた。
甘酸っぱいマルガリータ。綺麗に飾られた塩が、舌先で溶けていく。



「リズは悪くないよ・・・・・・リズのせいじゃない」



ふわりとささやく、おっとりとしたサフラの声音は、淡い花の香りのようで。
いつも夢のように心地良かった。

この声を、何度、絶望の淵で聴いただろう。


微笑む朱色の唇が紡ぐ言葉。
すっと細められる、翠の瞳の眼差し。



「だって・・・・・・・リズ、あの薬が、”アズラエル”がこんなにこの街に出回ってるのは・・・・・・
あなたは知らなかったと思うのだけど」



そのくらい、いつもどおりの優しい声と微笑をしていたので。
あたしは。



「あたしが、ここへ『薬』を求めてくる人に、ひそかに薬を飲ませていたからだよ?」



サフラの言ったことの意味が。
わからなかった。





一口。もう一口と。
カクテルグラスに唇をつけていたあたしを、じっと見守りながら。

数度瞬きをしたあたしを見て。
同じように。
微笑んでいた。


百合の花がほころぶような。
優しい微笑で。



「リズ」



何度もあたしの名前を呼んでくれた。
何度も「信じているよ」とささやいてくれた。
その唇で。

サフラは。




「なんだぁ・・・・本当に、気づいてなかったんだね。リズ」




くすくすくす。くすくす、と。

笑っていた。





笑っていた。







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