・第十六章




数度瞬きをくりかえした後、ゆっくりと、サフラの方を見た。
今言われたことの意味がわからなかった。

今までごく自然に穏やかに流れていた旋律を、不意に軋ませる、この状況に不釣合いなノイズ。

サフラは、ふわりと柔らかく微笑んだ。
そして、ため息のような吐息と共に、囁いた。


「やっと・・・準備ができた。あたしの薬を作るための材料がもうすぐそろうの。
 リズ、この時を待ってたよ、ずっと」


ぞくり、と。
不意に、氷を飲み下すような冷たい感覚が、胸の内に満ちた。
まるでじわじわと体が凍りついていくように。
寒気が、全身に広がってくる。


これって ・・・・・・ ・・・


唇に残ったカクテルの雫を、舌先でなめて口の中で再度味を確かめる。
この後味。
薬?
そんなことを確かめるまでもなく、指先には鈍い痺れがあった。
体が、動かせない。


「サ・・・・・・」


サフラ。
そう呼んで、立ち上がろうとした。

三分の二ほど飲み干したグラスを、カウンターに置こうとしたけれど。
その手さえすでに思うように動かない。
こわばりかけた指から、ガタン、と、グラスが傾いて、テーブルの端で転がる。
体を支える手に力が入らない。
あたしはそのまま体のバランスを崩す。そのグラスと同じように、転がり落ちる。

体が、動かない。
まるで悪い冗談のようだ。
一体何が起こったんだろう。お酒を飲みすぎたせいなのか。
そんなはずはない。意識はしっかりしている。少なくとも目は覚めた。
悪酔いしてみている夢や幻じゃない。
これは、現実。


「ふふふ・・・そのままでちょっと待っててね。リズ。
 あたしも何か飲みたくなっちゃったな・・・・・」



グラスが軽く揺れる、カチャカチャという音が聴こえる。
棚から酒瓶を取り出して、カクテルを作ろうとしている。
あたしは、床に転がって倒れたままで、その音を聴いていた。


何が・・・何が起こったのか。
何が起こっているのか。
あたしはまだ把握できずにいた。
理解することを拒否していた。


「サ・・・フラ・・・・・・?」


あたしの声なんかまるで聴こえてないように、サフラは、お酒を選んでいる。
リキュールの瓶を傾けて、グラスに混ぜている。
そう。まるで、何事もないかのように、自然に・・・・・・。


「サフラ・・・・・どう・・・したの・・・・?
 どうして・・・・・・あたしに、薬・・・・・・」

「ねぇ、リズ、先にあたしからあなたへ尋ねてもいいかなぁ?」


艶やかな朱の唇を笑みの形につりあげて。
サフラは、一言一言、言葉を味わうように声にして聴かせる。


「あたしのこと、今まで誰だと思ってた?」

「え・・・・・・」


手のグラスには、ルジェカシス・ソーダ。
氷を満たしたタンブラーに、カシスを注いだ、紅いカクテル。


「あなたはずっと、あたしに気づかなかったね? リズ」



思いがけない状況に、きっとこのときあたしは、混乱していた。
その中で、ふと、サフラの口調に違和感を抱いた。
いつもと違う。
あえて崩したのか、それとも、こちらの方が素だったのか。
それとも。


声?


「あたしがあなたに教えた名前で、ずっと『私』を呼んでいたね? リズ・・・・・・。
 ありがとう、リズ。
 あなたが気づいてくれなかったおかげで、あたしはようやく、”薬”を作ることができるよ」


一口、カシスソーダを口に含む。
うっとりと笑んだ唇。


これは・・・誰だろう。
あたしの目の前にいる、この少女は一体誰なのだろう。
これはサフラじゃない。


「まだ気づかないの? それとも、認めたくないのかな?
 そうだね・・・・・・あなたにとってはあたしは、あの時にとっくに死んだはずなんでしょう?」


『あの時に』 ?


途端に、息が詰まるような激しい悪寒が全身を貫いた。


頭の片隅に。
ちらちらと。
揺らめくものがある。

まさか。
そんな、そんなはず、ない。


「あなたはずっと、あたしに気づかなかったねぇ・・・・・・リズ」


そうだ、この声、この口調。サフラのはずがない。
あたしの知っている彼女は、ゆったりと高い声で、穏やかな抑揚の静かな口調で。
『リズ』って、傍で呼びかけてくる声がいつもあたしの耳に残った。

はらはらと、何かが崩れていくように。
今まで見えなかったものが見えかかっている。


「”アズラエル”・・・誰がそんな名前をつけたのかしら。死を告げる天使。
 世界の果てのような暗闇の中で、ゆらゆらと蝶の羽が光って・・・
 ゆらゆら、ゆらゆら・・・・・・ ふ、ふふっ」


引きつったような笑い声をあげて、サフラの肩が、震えた。



「・・・・・・なんて甘美な悪夢。そうでしょう?
こんな薬さえ・・・・・あなたが作らなければ、何も壊れずにすんだのに。ねぇ?」

「サ・・・・・・」



違う。
そんなはず、ない・・・・・・。



「あたしだよ・・・? シュエだよ? 
 リズ、ほら、あたしのこともう一度よく見ればいいよ。
 それとも本当に忘れちゃったのかなぁ」



その名前を聴いて。
全身が凍った。
首を締めつけられたように、息ができなくなった。



「髪の色も、肌も、ずっと化粧で隠してたの。この瞳の色も。
 だから気づかなかったんでしょう? 身振り手振りも、話すときの声も、言葉遣いも。
 あなたに悟られないで、あなたの近くにいるために、ばれないように気をつけたのよ?
 本当に、気づかなかったんだねぇ。リズ」



そう囁いた彼女の声は、とても楽しそうで、嬉しそうで。
凍えるほどに冷たい。
ようやく気づいた。
何かがおかしかった。眼・・・サフラの眼が、いつもと違う。
どこか正気を失くしたような、酔うような眼差し。
きっと、サフラがずっと隠していたものはこれだったのだろう。
今まで抑えていた憎しみが、彼女の瞳で燃えている。



「嘘・・・・・・そんな、シュエ・・・・・・本当に・・・・・シュエなの?
 だって・・・・・・死んだはずだったのに」



そんなはず、ない。
あの子が冷たくなったのを、確かにあたしはこの手で触れたはずだった。
一瞬で背筋が冷えた深い絶望を、あたしは確かに覚えている。
今、あたしの目の前で。
それを上回る絶望と混乱が、微笑みながら立っていた。



「死んだほうが楽だったかもね。仮死状態を繰り返したよ。あなたのくれた、薬のせいでね。
 この薬は・・・・・生きている感覚を遠ざける代わりに、死からも人を遠ざけるみたいだね。
 眠ってても、眠れないの・・・・・。すっと目の前が真っ暗になって、何も見えなくて。
 体が冷たくなって、寒くて・・・息ができなくなるの。呼吸の仕方を思い出せなくなるの。
 あの感覚が怖くて、逃げたくてたまらないのに、何度も何度も、繰り返して、そして目を覚ますのよ?
 知らなかった? ずっと知らなかったでしょう?」



夢ならば夢であって欲しかった。
手足には鈍い痺れがあって、全然動かすことができずにいる・・・・・・きっとサフラが、何か薬をお酒に混ぜて飲ませたからだろうけど。
でも、意識ははっきりしていた。
彼女の言葉の一つ一つが、明確にあたしへと届いて、確実に突き刺さってくる。



「ずっと、気づかなかったでしょう・・・・?
 あたしがずっと、アズラエルを使ってたことも。
 あたしが自分で、薬を作ってたことも。
 あたしがその薬を、人に渡していたことも。
 そのことを、ずっとあなたに隠していたことも。
 あたしが、あなたなんか全然信用してなかったことも。
 あなたの手なんか借りずに、アズラエルの中毒症状を治す薬を作ってたことも。
 何一つ、知らなかったでしょう・・・・・・?」


 彼女の言葉の一つ一つが、明確にあたしへと降りかかって、確実にあたしを打ち砕こうとする。


「おかげで、もうすぐ作れそうなんだ・・・・
 アズラエルの解毒の薬が。
 ずっと、治せる薬を探し続けてたよ・・・。
 アズラエルの幻覚と発作を、毎日必死で抑えながらね。
 すごく大変なんだよ?これ。薬で抑えておくの。毎日毎日」


「アズラエルの、解毒の薬・・・」


「そう、原料はなんだと思う? この薬を作った張本人のリズなら、気づいていたんじゃないかなぁ。
 アズラエルで死んだ人間だよ。
 だからあたしね、アズラエルをばらまいていたんだ」


「嘘・・・・・・」

「だって、もっと沢山の人に死んでもらわなきゃいけなかったんだもの。あたしのお薬になってもらうために」


「嘘・・・だって、サフラ、あんた、今までずっと・・・あたしと一緒に、アズラエルの中和剤作ったじゃない。苦しんでいる人を助けるんだって」


「うん。そうだよ。苦しいよ、アズラエルは。あたしにはわかるよ。
 でもね、あの薬じゃ助けられないよ? 知ってた?
 せめてもっと、やすらかに死なせてあげないとさぁ」


一変した口調。
その一言一言がすべて、刃のようにあたしへと突き刺さってくる。



「かわいそうに・・・、かわいそうに。
 リズ、あなたの作った薬は、一時的に、薬の発作を抑えるだけ。
 しばらくすれば、すぐにまた元に戻って、同じ状態を繰り返すの。
 薬の禁断症状に苦しんで、甘く狂った夢を見て、壊れて死んでいくの。
 ・・・禁断症状の状態で壊れて死んじゃったら、薬、作れないんだよね。
 綺麗に薬漬けにしないと・・・死体を精製できないの。
 薬の成分で凝固して心臓に滞った血液が必要だから。薄いと使えない。

 リズ・・・何をそんなに、信じられないような顔をしてるの?
 あたしが、あなたと同じ、役に立たないその場しのぎの薬を作ってると思ってた?
 あたしが作ってたのは、安楽死させる薬だよ。あたしみたいに、何度も苦しまなくてすむように。
 甘い夢を見たままで死ねるように

 リズ、あなたを殺すときも、ちゃんとこの薬使ってあげるから、安心してね。
 だからそのときまで、今度はあなたが狂う番だよ。
 そしてあたしは綺麗に治って、痛みも苦しみも全部忘れられる。
 それでいいでしょう?
 仕方ないよね。だって、あたしをこんな風にしちゃったのは、あなたなんだもの」


「シュエ・・・・・・・」


もう、前の名前では呼べなかった。
確かに彼女は、昔死んだはずの友だった。

 
そして彼女は、動けないあたしに手を伸ばして、首筋に薬を打った。
アズラエルを。
蝋燭のような注射器の、細い細い銀の針が、薄い皮膚の内に忍び込んでくる。


「あなたがあたしのお薬になってね。
 そしたら、許してあげるよ」


あたしの意識は、すっと暗闇の中へと堕ちていった。
蝶の鱗粉が見せる、幻の中へ。




これが幻覚なんだということは、心の奥底でわかっている。

黄色と、赤と、紫と、ピンクと、空色が、まるで水彩絵の具をこぼしたみたいに、目の前でマーブル状に渦巻いていた。
喉の奥から吐いた、ミルクのゼリーのようなものが、羽を持って飛んでいった。
掴もうと手を伸ばしたけれど、手がぐにゃぐにゃに溶けた形をしていて、うまく動いてくれない。

それは、ひどく奇妙な光景だった。可笑しくてたまらなかった。

死を告げる天使が見せる、狂気に満ちた甘美な幻想の絵画だった。







*        *        *






シュエは、床の上を這う友の姿を眺めながら、グラスに注いだジントニックの味を楽しんでいた。
赤桃色のその唇には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

一杯のカクテルを飲み干す片手間に、小さな紙袋を左手で破く。
カクテルをもう一杯、並々と透明なグラスに注ぐ。
ガラス棒でステアしたカクテル。その色は血に似ていた。
紙袋の中の、粉砂糖のような粉末を、液体の中に溶かした。

しなやかな指先で、グラスの縁をいとおしげにそっとなぞると、瞳を閉じて唇をつけた。
アルコールの香りがする、甘く熱っぽいと息が漏れた。




「生きることを面白くする薬ってないのかな」




薬剤師を目指していたリズに、シュエはそう言った。
二人でお酒を飲んでいたときだった。

私ね、世界が、コンクリートでできた箱に見えるよ。
ここから抜け出すすべはないんだろうか。

ダイオキシンで汚れた空には、妖精なんて住んでない。
夢のあるものなんか何一つない。

医学と科学ばかり発達して、人間はどんどん機械的になっていく。
死が人間から遠ざかるのに比例して、生という価値も同じく遠ざけられていく。
存在の意味すらわからなくなる。

何も見えない 何も見えないよ 
時代遅れな童話なんか誰にも求められていない。

















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