・第十七章




「聴こえた・・・・・・」


灰色の街から去ろうとしていた彼らは、その歩みを止めた。
不穏な響きを感じ取って、ラックが顔色を変えた。
歩いてきた背後を振り返って、もう一度、感覚を研ぎ澄ませる。


 トクン・・・ トクン・・・ トクン・・・ ・・・

『タスケテ』


耳には聴こえない声。
だけど、空気を震わせて伝わってくる。
まるで、透明なさざなみのように。


「もう一度、リズのところに戻ろう・・・。
 俺達は何か、重要なものを見落としてきてしまったのかもしれない」


決して間違ってはいなかった。救うべきものは確かにここにあったのだ。
この街の絶望の姿を諦めて、立ち去ってしまうにはまだ早そうだ。

「戻ろう、カルマ、急いで」



*        *        *




「リズ、アズラエルを置いていくね。

 投薬すると、十秒もすれば薬が神経を冒して幻覚が見え始める。
 幻覚はほぼ48時間続く。幻覚から覚めて数時間ほどは正気でいられる。
 そのあとは・・・わかるよね。禁断症状だよ。
 だから、薬、最低でも二日おきに飲まなきゃダメだよ? 壊れちゃうからね。
 あなたに渡したこの薬を、すっかり使い切る頃。

 あなた自身がお薬になるときだよ」


 トク  トクン  ト クン   トッ  トクン  トクッ  ト・・・クン


アズラエルは心臓の鼓動を狂わせる。
胸の内側の不協和音が、全ての歯車を崩していく。


 まって シュエ
 あなたにずっと伝えたかったことがあった


唇は痺れていて、声が出てこない。
手を伸ばしたくても腕が動かない。


少しずつ遠ざかる足音が、床の振動になって伝わってくる。
脳髄を叩く声になる。


 カツン カツン カツン ・・・ ・・・


それは、過去の悔恨を打ち寄せる波の音。
決して遠ざかることは無い。引いては返し、寄せては返す。満ち溢れる罪悪の浪。



「シュエ・・・ ・・・・・・」



ごめんなさい


苦しんでいたことに気づけなくて、ごめんなさい、シュエ・・。



違うんだよ。
あなたを苦しめるはずじゃなかった。
ただあなたに、元気になってほしかった。






*          *          *




目を覚ますと、そこにいたのはラックだった。


「起きたか?」


頭の中にはまだもやがかかったままだ。何も思い出せない。
呆然としたまま数度瞬きをして・・・手を動かそうとする。
床の上に倒れ付したままだった。わずかにまだ痺れが残っている感覚がして、体が重かった。
ざり。
伸ばした手が、床の上で何か尖ったものに当たって、鋭い痛みが走った。
砕け散ったガラスの破片。
これは何。



「しっかりしろよ、これ、飲めるか」



腕を引かれて、ようやく体を起こす。
差し出されたグラスには、水が注がれていた。
何も考えないままで、飲物に口をつける。
胸の中がひどく気分が悪い。
それなのに、水さえうまく飲むことができなくて、喉の奥でむせ返った。
体の感覚がおかしいと気づいた。
頭の中にもやがかかったような不明瞭な感じも。
全身の異常なけだるさも。



「ここに来る途中・・・サフラを見た」

「サフラ・・・・・・?」

「いつもと様子が違ったような気がしたが」

「・・・・・・・・・」

「何があった」

「・・・・・・・・・」

「あいつ、笑っていた」



「サフラ・・・・・・・」



ふと、カウンターの上に目が移った。
飲みかけのジントニックが少しだけ残っているグラスが、そのまま置いてあった。



「サフラもここにいたんだろう」

「・・・・・・・・・・・・・」

「何があったんだ」



サフラ。

違う。

そんな人間は、この世にはいない。

あれは。



「あ・・・・・・あ」



途端に。
頭のもやが吹き飛ばされたように、一気に、それまでのことが思い起こされて、頭の中で洪水を起こした。
指先が震えた。

意識を失う直前までの光景が、頭の中によみがえる。
ひび割れた唇からは、声にならない戦慄きがこぼれてくる。


「ああ・・・・ああああ」


記憶の波が、心を揺さぶった。
壊れるほどに。



「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーー!!!!!!」



叩き付けた拳が、グラスを粉々に砕いた。
破片は手に腕に突き刺さり、血まみれになる。


「ああああああああ! ああ! ああああ ああ!」


声にならない狂った叫びが、喉の奥からとめどなく溢れてくる。
床に倒れこんで、拳で床を殴り、額を打ち付ける。
喉が裂けてしまいそうなほどの絶叫が、理性を泥沼に引き込んでいく。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ」



涙は出なかった。
ただ、叫びばかりが止められない。


「ああ、あっ、ひう、ぐ」
「落ちつけ」


突然気道を締めつけられて、引きつった呻きとともに、叫びは一旦止まる。


「う、あ・・・」
「・・・落ちつけよ」


ラックが背後から腕を回して、とりおさえ、腕を使って首を絞めたのだ。
ただ押さえるだけじゃ効かない。一旦無理にでも止めないと、きっと血を吐くまで叫ぶだろう。それよりも先に心が壊れてしまうかもしれない。
リズは、唇を震わせて喘ぎながら、涙を探していた。呼吸を塞がれて、絶叫の代わりに溢れ出したのは、涙だった。ずっと溢れて止まらない。


「う・・・・・・・」

「落ちつけよ」


もう一度そう言って、首を絞めていた手を緩めた。ラックの腕には、リズの爪が食い込んだ赤い跡が残った。
叫びは止まった。
引きつるような呼吸を繰り返して、次に喉から漏れてきたのは、嗚咽だった。


「あたしのせいだ・・・・・」


ゴボッ、と、むせ返るような激しい呼吸をして、肩を震わせている。まだ息遣いが落ち着かない。
精神的不安定だけが原因ではない。


「・・・・・・何があった」


問いかけるラックの目は、リズの首もとを見ていた。
注射の針の跡が小さく残っている。赤紫色に擦れて、痣のように見えた。


「サフラか」

「違う」


かすれた声で答えて、首を振る。


「あれは・・・・・・サフラじゃ、ない。あたしが・・・・・・・昔、あたしが死なせた・・・・・・・・友達だった」


途切れ途切れに、言葉を紡ぎだす。
傷ついて血まみれになった手で顔を覆って、その指の間から涙が伝って流れる。


「そんなつもりじゃなかった・・・・・・・助けてあげたかったのに・・・・・・」


元気になってほしかった。
どんな薬でも作れると、治せない苦しみなんかないと、そんな思い込みが自分の中にあったせいかもしれない。
ほんの少し、気分が軽くなれる薬だよ、と。

そのはずだったのに。
渡していた薬の、副作用に気づかなかったなんて。


「治してあげたかったのに・・・・・・・、あたしが・・・・・・」


自分の未熟さと傲慢さが。
大切な人を苦しめた。

誰かを助けたいなんて。
力が及ばなければ、所詮、偽善に過ぎない。

彼女を陥れた本当の苦しみに、何一つ、気づいてあげられなかった。
あの時も。
そして、今も


同じことばかり繰り返してしまった。



「全部、あたしのせいなんだよ・・・・・・・!!!
 そのときの薬が・・・・『アズラエル』・・・。
 配合と使用量のほんのわずかな狂いで、あれは恐ろしい依存性を持った・・・。
 ちょっとしたことで、あたしの処方したその薬が、麻薬と呼ばれて流出して・・・
 止められなかった。
 どうして、どうして、こんなことに気づかなかったのか」


握り締めた拳から、また一筋、鮮やかな紅い雫が伝って流れた。まるで心の悲鳴のような、狂おしい、血の色だった。



許せない。
大きな過ちを犯した、自分自身が、許せない。


名前の無かった薬。
自分の知らないところでいつの間にか、死を告げる天使の名前で呼ばれていた。


大きすぎるこの罪を、一体どうすればいい。


こんなはずじゃなかった。
人を幸せにする薬を作りたかった。
誰かの心を救いたかった。
苦しんでいる人を助けたかった。


それなのに。


許してもらうことなんか望みはしない。
たとえ自分が死んだって、誰一人救えはしない。


だから。あたしが治したかったのに。
街が荒廃してからもずっと、地下に隠れて、薬を作り続けていた。
『アズラエル』と呼ばれるようになった薬の、中毒と依存症を治癒する薬を、ずっと探し続けていた。
そのつもりだった。


全部無駄なことだったと。
相方と信じていた存在に、粉々に、叩き壊された。
何もかも、完全に、幻だった。


「シュエは・・・・・・やっぱりあたしを・・・・・・憎んでいたんだわ」

「そして・・・復讐するつもりで、別人になりすまして、お前の傍にいた、と?」


落ち着いているラックの言葉に、静かに頷いた。
手を伸ばして、自分の首もとに触れる。
薬を打たれた跡の、点のようなわずかなふくらみがある。
あの瞬間の、サフラの、ぞっとするような冷たい微笑を思い出して、再び全身が震え始めた。

途端に、吐き気と虚脱感が襲ってきて、体が傾いだ。


「おい」

「薬・・・・・・」


そうだ。薬を打たれた。


「あの子・・・・・・あたしを『薬』にするって言ってた・・・」


麻薬が体の中に流れ込んできたときの感覚を思い出して、また胸の中がむせ返るような嫌悪感が募った。


『アズラエルの解毒の薬、原料は何だと思う? アズラエルで死んだ人間だよ』


サフラの声が耳によみがえる。
歌うような、笑うような、冷たい声。


『薬の成分で凝固して心臓に滞った血液が必要だから』



 ドクン ドクン  ド クン ・・・ ・・・ 


途端に、心臓の鼓動が狂い始めた。
頭が痛い。胸が苦しい。不規則な鼓動の音が、割れるように頭に響いてくる。
体中の血液の流れを狂わせる。


「リズ」


ラックの声も遠く聞こえる。
ああ。
”蝶”がすでに、この体の中にいる。


「あたし・・・・・・、いつまで正気でいられるだろう・・・・・・」


自分の胸をぎゅっと押さえながら・・・つぶやいた。
薬を打たれた後、世界が溶けるような夢を見ていた。
あれが、アズラエルが見せる幻覚なのだろう。


「気持ちが悪い・・・・・・」


胸を締めつけられるような息苦しさは、これはもう、すでに禁断症状の一端なのだろうか。
だとすれば、もうあまり時間が無い。
じわじわと壊れてしまう前に、何とかしなければ。
まだ、正気でいられるうちに。


「どうする・・・・・・?」


ラックが尋ねて来た。


「リズ・・・理性がまだあるうちに聞け。これからお前はどうする。
 お前の話だと、あの女は、これからお前を薬漬けにして苦しませた挙句に、お前を切り刻んで殺すつもりなんだろう。
 そしてお前はすでに薬を取り込んでしまっている。一旦中毒を引き起こしたら、治す薬は無いんだろう? もう取り返しはつかない。
 このままだとお前は、殺されるのを待つだけになるかもしれない。
 どうするか選ぶんだ。
 生きたいか、死にたいか。
 狂いたいか、そうでないのか。
 ここにいるか、どこかへ逃げるか。
 諦めるか、戦うか・・・。
 考えろ、そして、答えろ。
 手を貸すくらいなら、俺にもできる」

「どうして・・・・・・」


呆然と虚ろな目が、彼を見上げる。


「俺は”魔法使い”だ。もともと気まぐれなんだよ。しいて言うなら、酒の代金代わりかな」


リズはしばらく、ぼんやりとした瞳で黙ったまま・・・うなだれていた。
そして、


「生きたい・・・・・・」


こぼれてきたのは、わずかな涙と、すすり泣く声。


「シュエを・・・探そう。あたしは・・・あの子に殺されるわけにはいかないよ・・・・・・。
 たとえ許されなくても・・・あたしは・・・・・・!」


震える声でそう言って、泣きつづけるリズのか細い声が。
この世界で一番耳障りな音楽に聞こえた。





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