・第十九章



時間が無い。物事が狂い始めた途端に、悪いことばかりが加速して追い立ててくるような気がする。
たとえるならば、じわじわと欠けていく月の影。
軋み始めた世界の歪みを直すには、まだ、何もかもが足りなすぎる。

懐にある時計は、いまだに針が狂ったままだ。錆びついたまま動かない。
この時計は、運命を刻む楽器。
俺が抱く”魔法”の要(かなめ)。

・・・こいつが鼓動(とき)を奏でない限り、俺は歌えない。
足りない歯車はどこにあるんだ。一体何が噛み合わなくて、時間(うんめい)は狂っている。

時間というのは、再生と破壊。行きつ戻りつの振り子に等しい。
だがそれは理想論。過ぎ去ったものが戻らないとするならば、それは全ての崩壊でしかない。

このまま全てが狂ってしまうというならば、俺はそれを見届けるまでだ。
壊れることが本来正常であるとすれば、受け入れるしかない。

だが・・・


 トクン トクン トクン  トクン 


動かない針を見つめたまま、耳を済ませれば、どこからか聞こえてくるかすかな音色。
崩壊の秒読みとは違う。再生を探してさまよう声。

この音は一体何だ。
どこから聴こえてくるんだ。


リズは日に日に弱っていく。
天使の名前が、聞いてあきれる。あの麻薬はまさに悪魔だ。
やめておけと言う俺の手を邪険に振り切って、平衡感覚を失いかけた体を引きずって、外に出て行こうとする。


「お前がわざわざ行かなくてもいいだろ。あいつ探し出すって言うなら、俺が」
「いい・・・! あたしが会わなきゃ意味が無いの、サフラはあたしが探す、だからもう、放っておいてよ」
「そんな体で出て行って、まともに動けるのかよ。鎮静剤でも飲んでじっとしてた方がいいんじゃないか」
「薬があれば大丈夫・・・幻覚が治まってる間は大丈夫だから・・・あたしを行かせてよ!」


まるで仇を睨むような目で、そこまで言われてしまったら、もう止めようが無い。

確実に歯車は狂ってきている。
サフラを探し出して、止めさせることができるだろうか。
だが、そうしたところで何の解決になる。
麻薬の禁断症状を治す薬が無い限り、誰一人救われはしない。

最初に聴こえた音色を思い出せ。
『タスケテ』と。暗闇の中から確かに聴こえた。
あの声は一体誰のものだ。
ここには無い。
またたどるべき音を失ってしまった。


「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・」


リズが泣いている声がする。
薬のせいで、食べ物も喉を通らない。毎日、何度も何度も、一人で吐いている。
わずかばかり口にするのは、自分が『薬』と呼び続け、作り続けていた、酒。
まるでそれしかすがるものが残っていないように、祈るように両手でグラスを抱いて、注いだ液体を飲もうとする。
だけど、それすらもう、効き目は無い。
信じることをやめてしまったから。
『薬』は『薬』と信じてこそ、意味がある。
効き目を否定されては、何の効果も、何の奇跡も無い。
・・・まるで、神のようだ。
信じることに意味があったのだ。
必ず治ると。
必ず癒されると。
祈るものがほしかった。
それ自体が救いだった。

腕の震えを堪えながら、悪夢の中に引きずり込まれそうになる自分を抑えて。
・・・ほんの少し、酒の中に薬を溶かす。薬という名の、狂気の種。
そうしないと正気を保てなくなる。依存性とはそういうものだ。
一旦、寄りかかるものを与えられては、それを失ったとき、自我も何もかも崩壊する。
世界の破滅に等しい。

夢なんか、見るものじゃない。
現実に帰ってきたときに、あまりにも大きすぎる食い違いにぶつかって、砕けて粉々になる。

崩壊の秒読みが聴こえる。
俺は一体、誰のために曲を作ればいいのだろう。
耳をふさぎたくなるような、不愉快な騒音ばかりが溢れている。
俺の声を聴いてくれる者がいなければ、俺の魔法は真の意味を持たない。


どうして誰もかれも。
破滅ばかりを奏でようとするんだ。





*     *      *




時間が無い。
音を立てて崩れていくように、あたしは日に日に壊れていく。


薬が見せる幻影に溺れたあとは、きまって、胸がつぶれるような吐気がやってくる。
その後は、禁断症状を少しでも抑えるために、中和剤を打つ。
指先に力が入らない。注射器を持つ手がだるい。
黒ずんだ注射の跡が広がって、腕の皮膚がただれる。これも薬のせいなのだろう。
嫌だ。こんな薬なんか、嫌・・・。
人を傷つける薬なんて薬と呼べない。冷たい銀色の細い針が恐ろしい。
違う。あたしが作りたかったのは、こんな薬なんかじゃない。

足りない 足りない 足りない

苦しみの正体は、快楽の欠乏。
どこにも存在しない、楽園の崩壊。脆すぎる幻想の目覚め。
薬が切れると、目の前の虹色の照明がふっと消える。
暗闇の中に取り残される。
私が見ていたものは儚い幻。何も残らない虚空が現実。
見るものも聴くものも、触れるものも、何も無い。

ここはどこ ここはどこ ここはどこ

虹色の蝶を追いかけて楽園に心を奪われるうちに、私は私を忘れてしまった。
自分の姿も形も暗闇の中に置き忘れてきた。
手探りでもがいているうちに、私は正気を失っていく。
私は私を探している。


「死にたいか」


ぐったりと横たわるあたしを見て、ラックが囁く。
返事をする気力もないけれど、黙って首を横に振る。


「あたし・・・何もわかってなかったんだ・・・
 苦しんでる人を助けたいんだって、ずっと口にしてきたけれど、本当にあたしは口だけだったんだね・・・。
 気が狂うほどに苦しいっていうのが、どういうことなのか、あたしはずっと知らなかったんだ・・・」


押し潰されそうな暗闇に呑まれて、心を保てなくなる。
返して。あたしの虹色を返して。
心と体が戦って、体の内側にある薬の名残を求める。
薬。まがい物の、安楽と幻想。蝶が残していった紅い蜜。

蝶が あたしの中に たまごをうみつけていこうとするの

かげろうのような羽。光の燐粉。ゆらゆら、ゆらゆら、舞いながら。
私の腕や肩に止まって羽を休めていこうとするのは、私の中に甘い蜜があるからだわ。
トクン、トクンと湧き出でる、紅の蜜。溶けた花。


「シュエと同じ思いをすれば、許してくれるんじゃないかって気がしたの・・・。
 馬鹿だよね、あたし・・・」


今でも傷は増えているだろうか。
私の知らないところで、一人で血を流しているだろうか。
泣くときは私のことを忘れてしまっているだろうか。
苦しみに壊れた心は、泣くことさえできなくなっているのだろうか。
私の手の届かない夢の狭間にいるのだろうか。


「シュエはきっと・・・薬のせいでああなったんだ。
 もし助けることができれば、きっと元のシュエに戻ってくれる・・・」


そしたら、また一緒に生きよう。
壊れた街を、二人で作り直そう。
もう灰色の世界なんて嫌だ。

この世界を一人で生きるのは寂しい。





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