・第二十章



時計の針は戻せない。
薬で怪我や病気を治すことができたとしても、苦しんだ時間が消えるわけではないのだ。
怪我の痛みという事実まで消すことはできない。過去は変えられない。

どうすれば。
悲しみという病気を治すことができるだろう。
どうすれば。
憎しみという怪我を癒すことができるだろう。


暗い心の底に、ラックの言葉がわずかにわだかまって残っている。
小さな希望を反射させる。


『君の魔法を信じているよ、リズ』


魔法?
何が?
あたしの?

わからない。
魔法という言葉が示すものがわからなかった。


コツン コツン コツン ・・・ ・・・


滴り落ちる空白の雫。
世界にヒビが入る音。



「ラック・・・あたし、わからないよ・・・・・・」



トクン トクントクン ・・・ ・・・


不規則な鼓動の音色が、錆びついた心を締めつける。



『生きることを面白くする薬って無いのかな・・・』



いつかの言葉が、ずっと頭の片隅に残っていた。
きっとその頃から、そんな薬を作りたかったんだ。


灰色の街・・・。この場所は、荒廃するずっと前から、灰色の箱だった。


人間は完璧を求めた。
人間は秩序を築いた。
人間は安寧を探した。


『完璧』という神話を信じた人間たちは、この世のからくりを全て手に入れようとした。
治せない病は無いという、人が人として生きるための神話。
薬。人間が描いた傲慢な神話の一端。


だけど、結局、人の病は無くならなかった。


「悲しい」「寂しい」「退屈」「疑」「欲望」「倦怠」「憎悪」「安楽」「不愉快」「矛盾」「誤解」


どんな些細な要素さえ、人を苦しめる因子になりえる。
なんて複雑で不完全な、心の中の病。


――― 薬を作ろう。些細な病の元を治す薬を。


「悲しい」なら、どうか笑っていてほしい。
「寂しい」なら、どうかそばにいてほしい。
「退屈」なら、楽しい気分にさせてあげよう。
「つらい」ことがあるなら、どうか忘れられますように。
この世界に、些細な病がなくなることがないのなら、「楽しい」と感じることができるような薬を。


薬を・・・・・・ ・・・・。



グラスの中に注いだワインに、爪の先ほどのわずかな量の薬を溶かす。

・・・・・・人が、アルコールで酔って、気持ちが昂ぶったり、運動神経に影響が起きるのは、それはエタノールによる脳の麻痺が起こってるからだ。
また、適量を過ぎると毒になるのは、それは、体内でのエタノール分解での過程で生じる、アセトアルデヒドの毒性の影響。
酔いは、血中のエタノール濃度と比例する。

・・・・・・アズラエルは、それと似た状態を起こす薬のはずだった。
だけど、血の中に溶けた薬の成分が濃くなると・・・・・・・・。


最初は、幸福感と解放感。精神向上。軽度の陶酔感。
やがて運動能力、思考力の低下。幻覚。意識の喪失。脱力感。
意識の混濁。虚無感。視力、聴力の著しい低下。平衡感覚に障害。歩行困難。精神疾患。昏睡・・・・・・。


・・・・・・どうして。


薬を溶かしたワインを、一息にあおった。
グラスを置こうとして・・・指先が動かなくなって、カタンと転がる。底に残ったわずかな紅い雫が滴る。


どうしてこの薬が、人を苦しめるのか。どんな悪夢を見せるのか。
自分で確かめるしかないと思った。そして今度こそ、この麻薬の依存性を治す方法を探そうと・・・。


だけど、もう、無理かもしれない。


あたしは、もう時間切れ・・・・・・。


ぜんまいが切れたような感覚で、体の力が抜けて、その場に崩れた。
目の前がぼんやりして揺れる。
もう、蝶の幻覚さえ見えない。何も、もう・・・。


床の手触りだけが、意識に留まる。



カツン カツン カツン ・・・・・・・



時計の秒針が進む幻聴が、頭の中に聴こえた。

 


もう 悲しみたくない
もう 苦しみたくない
もう 苦しめたくない
もう 傷つけたくない
もう 傷つきたくない

そのための 薬 を




カツン・・・ カツン・・・ カツン・・・・・・




「リズ」



終焉を唄う時計の針の声は、あたしの前で止まった。



「迎えに来てあげたよ」



微笑んで立っている、サフラの姿がそこにあった。
あたしの目には、以前の彼女のままに見えた。



「こんなに酷くやつれて・・・ずいぶん無理したんでしょう」



倒れているあたしへと、サフラが手を伸ばしてくる。
白く細い指先。優しく囁く声。穏やかに微笑む翠の瞳。丸い肩にかかって揺れる柔らかい栗色の巻き毛・・・・・・。



『そんなにお仕事ばかりしてちゃ、リズが先に体壊しちゃうよ?』


姿は違うけど、今ならちゃんとわかっている。面影が重なる。
昔、あたしのそばで、あたしの作る薬をずっと待っていた女の子。


『薬なんていらないよ、お願い、私を置いていかないでね・・・・・・』


大丈夫だよ。そんな心配そうな顔をしないで。
私が治してあげるから。だからどうか信じて待っていて。
『生きる』ことそのものが、病だと知っていた子。

だから、治してあげたかったのに・・・・・・。



「・・・・・・大丈夫よ、あたしが助けてあげるから」



触れた指先は、淡い香りがして。
刺すようにひどく冷たい。



意識が朦朧としたままで、数度瞬きをしてサフラを見上げると・・・。
右手に握られた白い刃が煌めいて見えた。




「あたしが、治してあげるからね」





紅い唇に張り付いた微笑。
虚ろな瞳に浮かぶのは、憎しみと狂気。
・・・ああ。こんな病もあったんだ。


「リズ・・・これであなたもわかってくれたかなぁ。あなたの作った薬が、どれだけの害になったか・・・。
 この街を壊したのは、あなただよ。そしてあたしの帰る場所も奪ったの。
 そうでしょう・・・。リズ、あなたは、自分の作った薬の失敗を誰かに責められるのが怖くて、逃げたんでしょう・・・」


くすくすくす、と、擦れるような、低いかすかな微笑。
ねっとりと、甘く絡みつくような声音が、身動きの取れないあたしを苛んでいく。

唇を動かそうとした。
だけど、何も言えなかった。

それは違うと、どうして言えるだろう・・・。
何一つ、間違ってはいない。あたしがしたことも、そして招いた結果も、この現実も全て。
目を背けても、変えることのできない事実ばかり。


「あなたをそばで見ていて・・・ずっと、恨めしくて許せなくて、たまらなかったのよ・・・。
 リズ・・・あなたの言うこともやることも、そして作る薬も、全部・・・
 誰かを助けたいなんて、全部、口先だけの偽善ばかりでしょう・・・
 そうして自分は正しいなんてそぶりをしながら駆けずり回っていれば、あなたのしたことは全部帳消しになって、許されると思っていたの?」


ガシャン!


頭に突き刺さるような鋭い音が、甲高く響き渡った。
粉々に砕けたウイスキーの瓶の破片と、琥珀色の液体が床に広がる。


「あなたの言う『薬』なんて、どんなに無意味か、わかったでしょう・・・。
 リズ、あなたは所詮・・・他人の苦しみなんて何一つ理解してはいないんだよ。薬を作ろうとしていたのは、誰かのためなんかじゃない。
 ただの自己肯定。
 目に見えるものだけに気をとられて、肝心なものには何一つ気づかないんだ」


ガチャン


更にもう一つ。高く響き渡る音。今度はワインの瓶。


「でも、大丈夫だよ・・・リズ。あたしが助けてあげるよ。これで終わりにしてあげる。
 解放してあげる。あなたが作り出した”蝶”の夢から・・・。
 そうすれば助かるの。あなたも、あたしも・・・。
 だから、それで許してあげる・・・」


空気に漂うアルコールの香りで、ほんの少しだけ正気が戻ってくる。
誰がなんと言おうとも、これがあたしの『薬』。それだけは信じてる・・・信じたい。


「サ・・・フラ・・・・・・」


体を動かすことはできないけれど、どうにか声を出すことができた。
あたしの声を聴いて、彼女の微笑がはたと消えた。
あら、まだそんな体力があったの、とでも言いたげな目をしていた。


「だれ? あたしは知らないわ。そんな名前のひと」


そしてまた、笑う。くすくすくす、と。


トクン トクン ドク トク


ぎゅっと胸が締めつけられる心地がした。心臓が奏でる不協和音。あたしの呼吸と調和してくれない。
それでも、声を出そうとする。


「・・・こんなこと、しても、サフラ・・・あなたは救われない・・・」


壊れかけた体。悪夢に蝕まれて目覚めない意識。狂った心臓。毒された全身。
それでも、どうしても伝えたいことがある。


「おねがいだよ・・・もう、やめよう・・・ だれかをきずつけて、あなたが癒えるとは、おもえない、よ・・・」


あたしを責める言葉が全て事実というなら。
あたしは聞くしかないのだろう。受け入れるしかないのだろう。

だけど、こんなことは。
やめさせたかった。


だって、サフラ・・・今まで、あたしと一緒に薬屋で仕事してきたじゃない。
一緒に、誰かを助けようとしてきたはずだった。
傷ついた人を治せますように。
病んだ人を癒せますように。

誰かの傷を見て泣くことができる人が、誰かを傷つけることをできるはずがない。
他人を傷つけることは、自分のほうが余計に傷つくことなんだ。
そうでしょう・・・?


「命乞いなら聞かないわ」


高い位置から突き落とすような、ピシャリとした短い言葉。


「リズ・・・。アズラエルから解放されることが、あたしが救われることになるんだよ。
 そのために、あたしが、何年待ったと思う・・・」


袖の中から、何か取り出す。
薬。
・・・『アズラエル』。


「もしかして、あたしにはあなたを殺せないと思ってるの?
 リズはまだ、あたしのこと・・・仲間だと思って信じてくれてるんだね・・・。
 ありがとう。やっぱり馬鹿だね、リズは。
 あなたに見捨てられてから、寂しかったよ・・・
 そして、すごく怖かった・・・。リズ、この薬を使ってみてわかったでしょう。
 綺麗な夢がふっと消えて、目の前の何もかもが真っ暗になる感じ。
 こんなに簡単に壊れてしまう夢ならば、初めから何も与えてくれないほうがよかった。
 口先だけで偽善を語る人はいつもそうなの。
 ほんの少し優しい言葉をかけて・・・信じた瞬間に、突き落とすんでしょう」


ドクン ドクン ドクン ドクン


変な音がする。息苦しい・・・呼吸ができない。
壊れかけた心臓が、不規則に脈打って暴れている。悲鳴をあげている。

こんなの、いっそ、


「そんなの、いっそ、死んだほうがましでしょう?」


右手に握られている小さな白いナイフ・・・切っ先は、彼女の左腕へ、そして。
紅い雫が滴り落ちる。

やめて・・・やめて・・・。
心の中で叫ぶけれど、声が出ない。
そうさせてしまったのは自分だった。

鼻を刺す、血の匂い。だけどその香りは頭の芯をひどくかき乱す。
紅い蜜の香りがする。
アズラエルが溶けている匂い。


「薬を使うのも、使わないで耐えて過ごすのも、どちらもすごく苦しかったの・・・」


わかる・・・わかるよ。
とても怖かった。
このまま目が覚めなければいいような気がするのに、自分がこのまま消えてしまうんじゃないかって思う、あの暗闇はすごく恐ろしかった。


不規則な呼吸の声。サフラの唇が青ざめて震えていた。
今までの悪夢を思い出して、怯えているんだろうか。
喘ぐような息を吐きながら、自分で傷つけた腕に口をつける。
血は薬の代わり。
自分の輪郭を必死に探そうとして、誰かの、あるいは自分の傷を探した。
だから、この薬に魅入られた人たちは、あんなにも互いに傷つけあう。獣のように血みどろになって。


「リズから教えてもらった薬の知識で、悪夢を抑える薬を作ったよ。
 アズラエルで薬漬けになった人間はね、だんだん薬に耐性ができるから・・・だから、血の中の薬の成分が濃くなると、同時に、薬を中和させる成分もできてくるの。
 あたしは、それを取り出して薬を作るよ。
 うまく薬を作ることができて、完全に薬の成分が体から消えたら・・・あたし、きっと治るの。
 そうすればもう、自分も、人も、誰も傷つけなくてすむの。きっと、全部忘れられる。
 だから、リズ。
 あなたの心臓、あたしにちょうだいね。
 あたし、それで薬を作るから」


コツン・・・

一歩踏み出したヒールの音が、短く、高く、床に響いた。
そして、彼女は跪く。


ぷつん・・・


何か、か細い糸が千切れたような音が、自分の内側から聞こえたような気がした。
冷たいものが、体の中にもぐりこんでくるような感覚。
内側から聞こえたのは、注射針の先端が、深く深く、あたしの皮膚を突き破って入ってくる音だった。



ああ。どうして・・・・・・。
諦めてしまうことは、いつも、簡単なことに思えるのだろう。
本当はとても難しいのに。




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