・第二十一章




首筋に注射針が刺さる。細い痛みが体の内側に潜り込んで、感覚を侵食する。
液体が体内に流れ込むのと共に、どろりと体が重くなり、目の前が真っ暗になる。意識がさまよう。
神経を麻痺させて痛覚を失わせる薬。麻酔。


首から下の感覚がなくなる。だけど、逆に不思議と意識は明確になってきた。
サフラの手が、動きが、目線が、暗闇の中に浮かび上がるように、はっきりと見えている。夢なのか現実に見ているものなのかはわからない。
トクン、トクン、トクン、と・・・内側から聞こえる鼓動の声が、あたしの脳裏にささやきかけて、意識を繋ぎとめていた。
本当は夢だったのかもしれない。見えるはずのないものまで、はっきりとあたしには見えていた。




トクン

トクン

トクン



*          *         *



トクン

トクン

トクン




細い細い刃のナイフ。ゆっくりと泳ぐ切っ先がたどり着くのは、みぞおちの少し上左寄り。
仰向けに寝かされた体の、服の上から刺さった刃が、するすると滑っていく。
何も力を入れずとも、刃は軽く触れただけで簡単に皮膚を切り裂く。
薬のせいだ。毒に蝕まれたせいで、人間の肉体がこんなにも脆くなっている。すでに朽ち果てる寸前の体。
ひび割れた体の裂け目から、体の内の紅い潮が、鼓動の波に揺さぶられて溢れ出していく。


あれ・・・もう少し上のほうかな・・・


素手の指先を捻じ込んで、鼓動の根源をたどっていく。
胸の肉をこじ開けようと、差し込んだナイフを一度抜いて、今度は肋骨の真ん中に垂直に刺した。
皮膚の弾力の手ごたえと、ガツッと刃の先端が硬い骨にぶつかっていく振動が伝って、切っ先を揺さぶる。
一気に胸を切り開き、内部をさらしだした。
紅く開いた傷から、ゆっくりと流れ出した血が、脇腹のあたりに溜まって、海になっていく。



トク 

トク 

トク




どこ どこにあるの

悪夢を見せる蝶が遺した 夢から目覚めるための 薬




「シュエ ・・・ ・・・」




一瞬、横たわっていた体が引きつったようにかすかに身震いした。
乾いてひび割れた唇が、短い呼吸を吐き出そうとする。
そして、息をつくよりも必死に、口にしたのはわずかな言葉。



まだ。
生きている。
この体は。



首から下の自由を失って、解剖されている途中の仔鼠のような無様な様子にされながらも。
まだ。
息をしている。
微弱に叫ぶ鼓動の音を、胸に抱えて、手離さない。



なんて。
しぶとい。
命・・・・・・。



ガツン。胸を開こうとして、酷く不快な感触に突き当たる。一瞬手が止まる。サフラは嫌悪に顔を歪めながら、突き当たった硬いものに刃を当てて力を込めた。
皮膚を裂いた下から出てきた、赤く滑る、白い、邪魔な肋骨、強くナイフを突き立てて、折り、肉片と筋が張り付いた部分から、削ぎ取るようにして引き剥がす。
血の雫をまき散らし、乱暴に投げ捨てた。床に落ちた骨が、カツンと硬質な音を立てた。飛び散った血が、ぴしゃんと音を立てて紅い花を咲かせた。



トク トクン トクン  ト ・・・・



弱い鼓動が、体の内の肉を震わせている。
見えた。
熟れた柘榴のような、命の果実、一塊の肉片。



「・・・エ・・・ シュエ・・・・・・・」




震えていた。



死にたくない  トクン
死にたくない     トクン
死にたくない        ドクン



残りわずかな命の残量を計るように、波打つ鼓動は、乾きゆく乏しい血潮を吐き出し続けている。
床にこぼれた体液はすでに急速に冷めて、鉄と同じ色に変色し始めている。




こんな哀れな姿になっても
まだ

鼓動が
止まない


必死に
歌おうとしている




肺の動きが不規則になる。横隔膜が震えて肋骨が上下する。
・・・・・・痛覚を麻痺させるだけじゃなくて全身麻酔にするべきだった。呼吸の振動が邪魔で仕方がない。




「・・・・・・エ・・・・、・・・うで、の・・・・」




早く心臓を切り取らないと。絶命すれば、人間の体の機能は途端に失われて、組織が収縮する。
生きたままで・・・、細胞が死んでしまう前に、体から切り離さないと・・・・・・。
でないと、薬が作れない。死んでしまった人間の血液は、たちまち腐ってしまう。
大きく切り開いた傷口から、赤黒い粘性の液体がどんどん流れて、冷たい床の上に広がっていく。心臓の動きもどんどん弱っていく。
すでにこんなに血が流れ出した体で、もう息をする力も残っていないはずだ。

それなのに、なぜ、心臓の収縮に押されながら・・・
まだ息を吐こうと・・・言葉を吐こうとしているの。




「シュエ・・・・・・ その、傷・・・・ 腕の、傷・・・・・・・」




聴こえた。




「切り傷用の薬が・・・傷薬が・・・・・・薬屋の・・・棚・・・に・・・・・・あるから・・・・・・・」



トクン  生きたい

トクン  生きたい

トクン  生きたい


心臓が まだ
歌い続けている
叫んでいる


ほとんど、息の音のようなかすかな声で、青ざめた唇が、言葉を紡ぐ。
もうすでに意識が朦朧としているだろうに。ほとんど瀕死の状態で、こんな時に何を言おうとしているの。
早く眠ってしまえばいいのに。
おやすみなさい。


白く濁りかけた、半開きの眼。こんな眼で、何かが見えているとは思えない。
だけどリズの瞳は、確かに見つめ続けていた。
哀しげな感情を映して。
血まみれになった白い腕の。
塞がることのない幾重もの傷跡を眺めていた。



「もう、自分で自分のこと傷つけちゃダメだよ・・・・・・・」



体腔に差し込んだ手が、ねっとりと重く絡む血糊の中で、心臓と繋がる動脈をたどる。



「傷を治してあげられても・・・・・シュエが傷つくのは・・・・止められない・・・から・・・・・・」



早く。    トクン
これを。      トクン

切 ・・・・・・       トク  トクン・・・・



「ごめんね・・・・・治・・・・して・・・あげられなくて・・・・・・ごめん・・・ね・・・・」



ブヅ・・・ッ 
早くも錆びかかっているナイフの刃を、心臓と繋がる動脈に食い込ませた。
太い血管は、ゴムのように弾力があって、予想以上に硬い。・・・切れない。



「気づいてあげられなくて・・・・ごめん・・・・・・・・」



ごりごりと擦りつけるようにして、血管に刃先を食い込ませる。
手のひらの中で心臓が、暴れる小魚のように脈打っている。振動が伝わってくる。



「シュエ・・・・・・」



ぶつん。
太い脈の一つが切れた時に、引き付けを起こしたように、リズの体が一瞬痙攣した。
生臭い鮮血の匂いで呼吸ができなくて、眩暈がした。
違う、血の匂いよりも、血に溶けた薬の匂いに狂わされそうになる・・・。



「ごめんね・・・・・」



トクン
トクン
トクン



どうして・・・・どうして、まだ声が聴こえてくるの。
鼓動の音が聴こえてくるの?!
そんなはずはない。これはきっと幻聴だ。

おびただしい血潮が床一面を浸している。その中に投げ出された手足は、白い枯れ枝のようで、もう動くことはない。
青い顔。もうリズは生きた人間の顔をしていなかった。
カサカサに乾いた唇は真っ白になってひび割れていた。
半分閉じかかったまぶたの中の眼球は虚ろに濁っていて、もう何も見えていない。
それでもリズは、閉じかかった瞳をじっと向けて・・・・・・見ていた。
辛そうに、哀しそうに、眺めていた。

かつての親友に殺されることが悲しくてそんな眼をしてるんじゃない。
かつての親友を殺さなくてはならない、傷だらけの手を、ただただ悲しげに見ていた。
死ぬことが辛いんじゃない。
その傷だらけの手に触れることもできず、何もできずに死ぬしかないことが辛いんだと、瞬きのできなくなった瞳が叫んでいた。



トクン ・・・
トクン ・・・
ト ・・・ クン ・・・



心臓はまだ動いている。
リズはまた、唇をかすかに動かした。もう息を吐くほどの力も無い。
言葉を発することなんかできなかった。

だけど
その声は

最後の鼓動の音と共に
伝わって
はっきりと響いて
聴こえた


『薬を作って・・・早く元気になってね。シュエが痛かったり苦しかったりしたら、本当に、悲しいからね・・・』


幻聴に違いなかった。
だってもうすでに、リズの鼓動は止まっていた。
ぶつん。
心臓と体を繋いでいた最後の太い血管が、やっと切れた。
拳ほどの大きさの、ずっしりとした小さな臓器が、血まみれの手のひらの中に転がった。
肉体から切り離しても、まだそれは熱くて、細い糸を垂らすように中に残っている血を滴らせていた。

トク、トク・・・と、手のひらを伝わってきた弱い鼓動の余韻が、まだ残っている。
叫んでいた命の信号が。
鼓動が。
ずっと、聴こえる。
手のひらを伝わって、耳に届いて、脳の中にまで響いてくる。
この手で断ち切った、胸の奥の音色。

歯を食いしばって、耳を塞ごうとする。
握り締めた左の手から、ぽた、ぽた、と血潮が垂れる。
こんなもの、もう肉の塊にすぎないのに。

右手に、血まみれの錆びついたナイフ。左手には、まだ生暖かい血肉の塊。
目の前には一面の紅。壊れた体の亡骸。


『シュエ』


動かなくなったリズの、乾いた唇が、まだ話しかけてくる。
どうしてだろう・・・血の気を失った青い顔が、不思議と穏やかな表情に見えるのは。

途絶えた鼓動が、必死に紡ごうとしていた、最後の言葉。
死の淵の最期で、その唇が伝えようとした言葉。

その声を聴いてしまった。
たとえ、耳に届く声にはならなかったとしても、開きかかった唇が、鮮明に伝えてくる。



『シュエ・・・・・・』



体を切られて・・・血まみれになって胸をえぐられて・・・
動くこともできなくて・・・


その間ずっと、リズは、伝えようとしていた。
名前を・・・呼ぼうとしていた・・・・。


・・・・名前、どちらで呼んでいたっけ。


『シュエ』



どっちで・・・。



『サフラ』



過ぎ去った昔の記憶の中で呼ばれていた名前。今はもう死んだはずの名前。
自ら築き上げて、そして自分の手で叩き壊した偽りの名前。今はどこにも存在しない。


ああ、どっちでも同じだ。リズが伝えたかったのは、両方。
傷ついた人を放っておけない性分だから。




『一緒に、生きたかった』



動かなくなった唇が、確かにそう伝えていた。




『大好きだよ』



とくん とくん とくん ・・・ ・・・・・・



止まったはずの音色が、どこからか、響いてくる。






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