・第二十五章






 ほんのささやかなゲームのはずだった。
 彼女の心が如何様に揺れるか。
 それを見てみたかっただけだった。

 だからわざと残酷な言葉を告げたんだ。
 絶望を誘う最悪のバッドエンドをちらつかせた。



 君が本当に望むものは何か?



 まだ大切な譜面が欠けている。




 「どうして・・・・・・?」 


  トク トクン トクン

 
 彼女の胸で波打つ鼓動。歌い続ける音色。紅く膨らんで熟れた果実。
 アズラエルの甘い毒に染められた血が、その中に入っていたはずだ。
 そしてそれは、あの子の薬になるはずではなかったのか。
 夢幻を招く蝶の毒は消えた。
 なのになぜ。
 まだ、そんなに悲しい声で唄う?

 「あたしが生きてるから・・・・・・? あたしが生き残ったから、シュエは助からなかったの・・・・・・? 薬・・・・薬は、作れなかったの・・・・・・・?」
 「なら、もう一度お前を殺して、心臓を抉り出したほうがよかったのか?」

 もちろん冗談の言葉だった。
 でも、リズはそうとは思わなかった。

 ぎりぎりまで注いでいた酒の雫が、ふっとグラスのふちから溢れるように。
 リズの内側にあったものが、とうとう零れた。


 「それでシュエが助かるのなら・・・・・・」


 大粒の熱い雫が目からこぼれて、頬を濡らしていた。

  

 「あたし、シュエを・・・・・自分の友達を、助けられなかったよぉぉぉぉっ!」

魂の奥底からしぼり出すような・・・・・・悲鳴のような叫びだった。
 誰かに訴えたいわけではない。壊れかけているわけでもない。ただ、吐き出さずにはいられなかったのだ。
 涙も。
 声も。
 悲しみも。
 ただ、ただ、たどりつくべき行き先を求めて流れ出す。
 どこにも寄る辺はないと知りながら虚空をさまよう。


 「ラック・・・・あたし、悲しい、悲しいんだよ」

 呼吸を取り戻した唇が。
 言葉を取り戻した声が。
 熱を取り戻した彼女の命が。

 流れて、溢れて、歌い始めた。

 
 軋み続けた歯車が。
 こぼれて、溢れて、廻りはじめる。


 「悲しい、悲しいんだ、自分の大切な人が、ううん、大切な人じゃなくても、誰でも、どうして心の優しい人ほど真っ先に傷ついてしまうように世の中は動いてるんだろう。悲しい、悲しいよ、悲しまなくてもいいような人が、悲しまなくてもいいようなことで、悲しんで、傷ついて、泣いていることが悲しい・・・・・・。 
 しかもそれは全部、あたしのせいなんだ!
 あたしにできることであの子を・・・あたしが苦しめてしまった人を助けることができるんだったら、何だってするのに、どうしてそれができないんだろう」


 手のひらで受け止めきれないほどの涙が。
 永く凍てついていた誰かの心を温める。


「だって・・・、ラック、知ってる?
 怪我をしたら・・・・・・痛いんだよ?!」


 治らない傷は、苦しい。


「病気で苦しいのに誰も助けてくれない・・・そばにいてくれる人がいない・・・・それってどれだけ心細いか、知ってる? 知ってるでしょう? ねぇ、魔法使い、あなただって、そのくらいのことなら、わかるでしょう?
 苦しいのに・・・・こんなに苦しいのに・・・・・・
 『苦しいよ』って言える相手さえ誰もそばにいてくれない、それがどんなにつらいか・・・・・わかるでしょう?」


 知ってる。知ってるよ。
 わかるよ。



 少なくとも、君が、何度もそういう経験を過去に味わってきたんだろうということくらいは、わかる。

 「助けてあげたかったのに・・・・・」

 
 違う。助けてほしかったんだ。


 「そばに行って、大丈夫だよって」


 大丈夫だよ。


 「そう言ってくれる人がいてくれるだけで、傷の痛みも熱も、途端に楽になって忘れられるのに・・・・・こんな、こんな簡単なことだけで。
 どうしてあたしには、それさえできないんだろう。
 誰も助けることができないのなら、あたし、何のためにいるのよ!!!」


 与えられたものを、返すことができない。
 与えたかった。
 自分が助けを必要としたのと同じように。


 同じ苦しみを抱えた誰かに。
 必要とされたかった。

 わかってる。そのくらいきっとわかってる。
 だけど、そうせずにはいられなかったんだ。


 「悲しい・・・・悲しいよ・・・・・・・」


 涙は止まることなく溢れ続けている。それは誰のための涙だろう。
違う。それは自分のためじゃない。
 人の痛みを自分のものと感じずにはいられないほどに。
 偽善と呼ぶにはあまりにも、彼女は自分の心に正直で。
 そして、苦しむ人に対して優しすぎた。 


 「助けて・・・・・・・」


 崩れるように泣きながら、魂の叫びは、その唇から紡がれる。
 溢れだす。 
 

 「助けて・・・・・・お願い・・・・・・・」


 手のひらで受け止め切れない涙が。
 一度流れした血の上に落ちる。
 元に戻すことはできないけれど。傷ついた過去は戻すことはできないけれど。
 その瞬間から、むせ返るような生々しい血の匂いが、浄化されたような気がした。
 涙が、憎しみも痛みも洗い流そうとしている。


 助けて。
 助けて。


 この言葉を聴いた瞬間。
 かちりと鍵が開いたような手ごたえを感じた。



 「もしそうすることができるなら、シュエを助けて、お願い、お願いだから。
 あたしがあの子を助けてあげられないのなら、誰でもいい、何でもいいよ。
 助けてあげて・・・あの子を。助けて。
 たすけて・・・・・・・!」


 届くことの無い願いのように。
 涙は流れ続ける。
 壊れそうな心を抱えて。
 ひび割れたレコードのように、同じ言葉ばかりを繰り返す。
 まるでその言葉そのものが、シュエを助ける呪文であるかのように。


 たすけて
 たすけて
 たすけて



 ・・・・・・・ああ、そうか、聴こえていたのは、この声だったのか。



   トクン  トクン  トクン  トクン



 伝わっているのは空気ではない
 耳へ聴こえる音ではない
 君の心から響いている歌だ
 強がっていた心が軋んで崩れていく音だ















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