カツン・・・ カツン・・・ カツン・・・

階段を降りる足音

何も見えない暗闇


ああ
これは

歯車が軋む音


真っ暗な視界の中に、白い光が一筋こぼれているのが見える。
扉だ。
開いた隙間から、部屋の明かりが漏れているのだ。

リズはその扉に手を伸ばした。
これは、悪夢の続きだ。

キィ

扉が軋む。
部屋の中の空気は、息を塞がんばかりの花の香りがした。
薔薇の花びらがこぼれている。

ここは。
『薬屋』の更に奥の部屋。
酒瓶薬瓶を置き、薬剤素材を管理する場所。
棚には、標本のように並ぶ、花や葉を漬け込んだ薬効酒。
卓には、ホワイトリカー、リキュール、クレイ、オイル、蜜蝋、乳鉢。
床には、死骸のように花びらが散乱している。
その中に佇んで、ひたすら、花を千切って撒き散らしているのは。

そんな、はずはない。

背中に波打つ栗色の髪
肩が広く開いた衣装の、豊かな体の曲線に沿う輪郭。見にまとう漆黒。
百合の花のような白い手。
その指先から、紅い花が散る。
瓶のホワイトリカーの中に沈ませている。

サ・・・・・・

名前を呼ぼうとする声は、リズの喉の奥で凍りついて出てこない。

彼女が。
ゆっくりと。
振り返る。

唇に笑みを載せて。

栗色の髪が流れる、白い肩。
エメラルド色の瞳。
そして、その唇が囁く声は、甘い吐息を帯びる。


「リズ、お薬は作れたの?」


ぞわりと、背筋が粟立った。


「どうして・・・・・・?」

なぜ、あなたがここにいるの。
サフラ。
死を告げる天使。あの麻薬で殺されたはずだった。

カツン

サフラが、ゆっくりと歩み寄ってくる。床を鳴らす一歩が、散らばる薔薇の花びらを踏む。
笑っていた。
穏やかな笑顔で。
リズが一番、よく見知っていた表情。

彼女はこの笑顔で、リズの胸を切り裂いた。

「きっと私、消えることはできないのね、ようやく眠れると思っても、気がついたら、虹色の蝶が目の前を飛んでるの・・・・・・。
あの薬からはもう、逃れられないのかなぁ。
ねぇ、リズ。
あなたはどう?
せっかく私が、あなたにも甘い蜜を注いであげたのに。
あの時の傷は、もうあなたにとっては、なかったことになってしまったの?」

そんなはずはない。
今目の前に佇む彼女は、幻覚に違いなかった。
なぜならあのとき。
冷たくなったサフラの亡骸を、土に埋めて別れを告げたはず。

今度こそ本当に。
あの子は死んでしまったはず。

また、繰り返すの?
同じ苦しみを、何度も何度も。
目の前で、苦痛にもがいて、そしてなすすべもなく朽ちていくのを、見ているしかできなかった。

もしも救えるのならば、何を失ってもかまわないのに。


白い手が伸びて、リズの頬に触れる。
その指先は、氷のように冷たい。ゆっくりと微笑んで、名前を呼ぶ。


「リズ、私は信じてるよ。必ずリズが、薬を作ってくれるんだって」


優しく語り掛けるような声が、目が眩むほどに心の傷をえぐって、目の前を真っ暗にさせた。


「信じてたのになぁ・・・・・・」


天使のように見せかけた柔らかな笑顔の、その瞳の中に沈む色が激しい憎しみだということには、とっくに気づいている。


どうすれば。
あたしは。
彼女の苦しみを、助けてあげられるのだろう。



「サ・・・・、ううん、シュエ・・・・・・。
 あたしの薬のせいで、あなたを死なせてしまったと思って・・・・・・あたしはあの時、どんなに悔やんだかわからない。
 もしもあなたが生きていてくれたなら、あたしは」



喘ぐように話すリズの首元に、不意に爪が食い込む。
蝋のように白い指が、気道を締めつけていた。
体に力が入らない。リズは震える手で、サフラの腕を必死に掴むけれども、抗えそうにない。
サフラは微笑を崩そうとしない。まるで、小さな子供を見守る母親のような目をしながら、首を絞めているリズのことを見ている。


「ねぇ、私の腕を見て。これ、酷いと思わない?」


リズの首筋を掴んでいる腕の、その肌を覆っている袖を、反対の手で捲る。
火傷になって崩れたような皮膚の色。
あるいは、無数の切傷が重なったような崩れた肌。
切れ切れに呼吸をしながらも、リズはその腕を見る。


知っている。
薬のせいでこうなってしまうんだ。


「こんなに苦しいのに、どうして私、生きてるのかなぁ・・・・・・。今までに何度そう思ったことか。あなたは知らないでしょう、リズ。
 あなたはずっと、気づかなかったね。
 それなのにどうしてあなたが、誰かの苦しみを助ける薬を作れるの?」


ゆっくりと、一語一語、語りかけながら。
締めつける指先の力が一層強くなる。
薄桃色の唇が、裂けるような笑みの形を作る。


リズは、声にならない叫びを胸のうちで繰り返す。


違う 違う
あたしは、あなたを助けたかった


だけど、その叫びは決して伝わらない。
気づいてあげられなかった。それは紛れもなく事実だからだ。
どれだけ、後悔の暗闇の底に沈んでも、贖うことはできない。
許してほしいなんて言えるはずもなく、そうしてもらうつもりもない。
ただ本当に、どうすれば、彼女の痛みを治してあげられるのか。
もしできるのならば、命さえ投げ出してかまわないのに。
呼吸が出来ない苦しさで、涙がこぼれてくる。息が、息が出来ない。
ようやく、リズの首を絞めている手が解けた。
床の上に崩れ落ちるように倒れて、震える呼吸を繰り返した。
這いつくばっているリズの姿を見て、サフラは満足そうに目を細めていた。


「サフラ・・・・・・・」


こんなに苦しくても。
それでも、体は呼吸をしようとする。
望んでいなくても、心臓は脈打って、血液が体内を駆け巡る。
これは、逃れられない現実なのだ。


「お願いだよ、サフラ・・・・・・、あたしは、あなたに生きていてほしかった・・・・・・。
 許してくれなくてもかまわない。あたしのこと、憎んでいたってかまわないから。
 でもあたしは、あなたを助けたい。本当だよ。
 もしもどうしてもあたしを許せないなら・・・・・・、そうすることで本当にあなたが救われるなら、あなたの手であたしを殺してくれたってかまわないから。
 でも、もしもあなたがもう一度だけあたしのことを信じてくれるなら・・・・・・
 一緒に、生きようよ。今度こそ、あなたの苦しみが癒されるように、あたし、お薬を作るから。
 きっと治るって、信じていてほしい。今はまだできなくても、きっとあたしが治してみせる。
 あたしは、あなたがいてくれたから頑張ってこれたの。
 サフラ、だから、あなたには生きていてほしかった。もう一人で苦しませたりしない。
 もう、自分で自分のことを苦しめるのは終わりにしてほしいんだよ・・・・・・・」



床の上を這いながら。必死に、叫ぶ。
たとえ届かなくても、ずっと伝えたかった。
あなたを助けようとして、そうして間違った薬を作った。
心を癒すはずの薬は、永い永い悪夢を与えてしまった。


高く、震える、哂い声。
サフラが、痙攣するように震えながら、途切れ途切れに哂っていた。


「リズ、私、あなたのそういうところが好きだったよ。
 あなたは、私を助けようとしてくれたから。それが本当にあなたの本心だというのを知っていたから。
 でもね、それ以上に、堪えられないくらい許せなかった。
 あなたは結局口先ばかりで、無駄に足掻くだけで、誰も治せていないのよ」


サフラは、卓上に重ねられている、薔薇の花を手に取った。
花びらを乱雑に引き千切る。
ばらばらと、卓の上に、そしてその下の床に紅く零れた花弁が舞い散る。
透明なガラスの瓶。満たされているのはホワイトリカー。花弁を漬け込んで花酒を作るのだ。鎮痛作用の薬。


ふわりと、甘い香りがする。とろりと濃い蜜のような。
この香りの正体を知っている。それに気づいてリズは背筋が凍りついた。
これは、あの麻薬の匂いだ。


「ふふ、ふ、ふふふ」


吐息が零れるような哂い声。
薔薇の花を千切る手を止めて、サフラは自分の掌を見つめている。
棘が突き刺さって、掌には無数の傷がつき、血が滲んでいる。
擦れるような哂い声と、しゃくりあげる浅い呼吸の繰り返し。焦点の合わない視線が宙を泳ぐ。


「現実と夢の区別がつかなくなるのは、とても恐ろしいわよねぇ・・・・・。自分が生きてるのか死んでるのか、それすらわからなくなるんだもの。
 ひらひらと綺麗な蝶が飛んでいる夢を見て、でもすぐに暗闇の中に消えて取り残されるのよ。怖かったなぁ・・・・・・。
 ねぇ、リズ、あなたにも想像つくのかな?」


サフラの口調が、声音が変わる。落ち着いた優しい口調から、あどけない無邪気な子供の声へ。
知っている。この声を知っている。
あたしが、あたしの作った薬のせいで殺した。
シュエ。
悪夢の中に取り残されて、死と生の曖昧な暗闇の中に閉じ込められている。
何度、一体何度、繰り返せば救われるのか。


「ふふふ、ふふ、なんて綺麗な幻・・・・・・・・」


何もないはずの虚空へ手を伸ばす。
蝶が、見える。
キラキラと光る虹色の鱗粉を蒔きながら。
それを見た途端、急にリズは、自分の胸に激しい痛みを感じた。


「う・・・・・・・・・・」


低く呻いて、胸を押さえる。



ドクン   ドク ン    ドクン



胸の中が軋んでいる。



急に記憶がフラッシュバックする。


自分の体にも、死を告げる蝶の紅い蜜が沈んでいる。
薬を打たれて、そして動けなくなって、胸を切り裂かれた。
夢や幻であるはずがない。



ドクン  ド ク  ン     ド クン   




叫びだす不協和音。



「リズ、あなたがもし生きようとするならば、あたしと同じくらい苦しんでね」



くすくすと、無邪気に哂う、シュエの言葉。



「そうしたら許してあげるよ」



目の前を、数え切れないくらいの、色とりどりの蝶が舞い踊る。
これは、麻薬の幻覚作用。
思わず恍惚として見惚れてしまうような幻。
やがてこの大量の蝶が肌に群がってきて、体の中に卵を産み付けに来る。
目の前がぐにゃぐにゃに歪んでいく幻覚が起こる。



「リズ、あなたが苦しむのを見ていてあげるよ。誰かの苦しみを癒してあげたいなんて、そんな口先だけの偽善を吐くのなら、その苦しみがどんなものか、もっともっと知ればいいわ。
 あなたが本当に、苦しみを治す薬や、誰かの心を幸せにする薬を作れるかどうか」


薄桃色の唇が、愉しそうに微笑む。
指先から薔薇の花びらが散って、息が詰まりそうなほどの濃い花の香りが漂う。
それほど強い花の香りも、甘い薬の匂いをかき消すことは出来ない。


ひらひらと、蝶が舞う。
揺らめいて ゆらゆら と 狂わせる。



「あなたがもっと苦しむのを、楽しみにしてるね」



そうして囁く声を残して。





狂おしい幻覚が、暗闇の中に吸い込まれて途切れた。





ト クン  トクン       トクン        トクン        ト ク  ン




心臓が歌い続ける。




歯車は何度も何度も、軋んだ音を立てて廻り続ける。
生きている限り抜け出せない音色を奏でている。










←BACK NEXT→  Re


















----------------------------------------
(2013/2/17)


















inserted by FC2 system