【 とりかへばや 10 】




花橘の夏きにけらし。
卯の花朽たす五月雨の。


夏の暑い日の夕方だった。

なんとなく心鬱な気持ちで、半蔀から空の色を眺めて過ごしていた。
六月が過ぎると、途端に暑さを増してくる。
長雨の梅雨ほど陰鬱な季節はないと思っていたが、夏の暑さもこれまたひどく煩わしいものだ。
手元で仰ぐ扇に焚き染めた白檀の香も、心を和ませてはくれなかった。
心に浮かぶ季節の古歌などを、思いつくままに吟じてみても、たいして気の慰めにもならなかった。


妻の四の姫とはあれからも、溝を隔てて会うような間柄であるし。
中将とは、仕事上宮中ではどうしても顔を合わせてしまうものの、それ以外には全く会話も何もない。
心の救いを求めて、吉野山の宮などにお会いしてみたものの、特にそれで問題が解決するわけでもない。
四の姫に生まれた赤子には、やはり一目でわかるほどに、中将の面影が見て取れて、ますます中納言の心を沈ませた。
すべては己が蒔いた種だ。だが、どうすればいい。


心が晴れないのは、うだる暑さのためばかりではないに違いない。


唯一慰めになるのは、尚待として出仕している藤が、何事もなく順調に日々を過ごしているという報告だった。
女東宮も藤を大変気に入ってくださり、まるで姉妹のように慕ってよく世話してくれるそうだ。
心配していたようなことも特になく、従来の対人恐怖症も、宮中での生活に慣れるにつれて次第に和らいでいる。
安心した。
藤が幸せでいてくれるならそれでいい。
男としての幸せはなくとも、あの容姿もあることだ。女としての嗜みや作法を身につけ、女東宮のようにお立場のあるお方に気に入っていただければ、今度もこのままの暮らしで穏やかに幸せに過ごしていけるに違いない。


だが、自分はどうする。
中納言という地位を手に入れた。四の姫という美しい女性を妻として手に入れた。
傍から見れば、自分の男としての人生は成功していることだろう。
しかし四の姫に生まれた子供は、私の子ではない。
この先もずっと、四の姫には、本当の夫になってあげることはできないのだ。
彼女を偽りの妻として迎えた罪悪感が胸を締めつける。
いっそ自分ではなく、中将のような男が、彼女を手に入れたほうが四の姫を幸せにしてあげられるのではないか・・・・・・。
そう思うのは、仕方のないことだ。
なのになぜ。
こんなに心乱れて胸が苦しくなるのだろう。
大切にしていた女性を奪われた、男としての悔しさなのか。
それとも、四の姫を幸せにしてあげることができない罪の意識なのか。


「ひとりねに啼く郭公、声を聞かばや」


誰か訪ねて入ってくる気配がした。妻戸を軽く叩いて、物申す声は聞き覚えがあった。
半分開いた蔀戸からちらりと垣間見えたのは、朗らかに微笑む中将の顔だ。
侍女め、人が来たなら知らせればいいものを。恐らくこの男が、たいしたことじゃないとうまく言いくるめて、そのまま入ってきたのだろう。


「ああ・・・・・、何用だ、中将」
「別に。無性にお前の顔を見たくなってな」
「・・・・・・少し下がっててくれ。暑くてくつろいでいたものだから、着物も脱ぎ散らかしてしまっている。袴の他には薄手の単衣しか着ていなくて・・・・」
「いや、かまわない、そのままでいろよ。たいした用事もないし、仕事の話があるわけじゃない。わざわざ着替えなくていいだろう」


上に着るものを取ってこようと、奥に下がろうとしたのだが。
一向におかまいなしといった様子で、そのままわるびれもせず中将は勝手に中に入り込んでくる。


「女もいない部屋だ。多少だらしのない格好でも具合の悪いことはないだろう。
 ここのところ気分がすぐれないと聞いていた。なのに隠れてしまうなんて、あんまりじゃないか」
「だが、見てくれ、こんな見苦しい格好で。お前がよくても私のほうが心苦しい」
「ああそうだな。ならば俺もこうすることにするよ。確かに今日はひどく暑いからな。このほうがいい」


そして中将は中納言の言うことも聞かず、自分も装束の紐を緩めてしまった。
無造作に直衣を脱ぎ捨てて、襟元の合わせを崩す。


「いいじゃないか、男同士だ。俺も堅苦しいのは嫌だからな。気にするな」


見ると確かに首元は汗ばんでいて上気している。先ほどまで宮中に出仕していたところだったのだろうか。きちんと直衣を着込んでいるとそれは暑かろう。


「・・・・・・わかったよ。いいだろう」


わざわざ自分のために着崩したところを、追い出すのも忍びない。
よほど暇なのだろうかと呆れたが、ここで無理に拒絶するほどでもないだろう。


暑さを紛らわすために気まぐれで立ち寄っただけだ。ただそれだけだ。深い意味などない。
その程度に、甘く考えていた。







このとき、彼を拒まずに呼び入れたのは。
間違っていたのか、それとも正しかったのか。


後々、何度も思い返すことになる。



部屋に上がりこんでくる中将の後ろで、虫の鳴く声が遠くに聞こえた。









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(2011/10/2)




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