【 とりかへばや 5 】




「あなたが、菖蒲の中納言さまの妹君ね」


宮中で右も左もわからず、うろたえがちだったところを、優しく迎えて声をかけてくださったのが、女東宮、桜子様だった。


「本当に、噂に違わずお美しいお方・・・。さすがに、お父上の左大臣様も兄君の中納言様も、今の今までご秘蔵されるはずですわ」


東宮様のおっとりとした柔らかな物言いが気恥ずかしくて、恐縮してその場で礼をした。
なんて、綺麗なお声の少女なのだろう。それに、思った以上に幼く、おっとりとした人だった。


参内して毎日多くの人と会うなんて、どんなに緊張するだろうと思っていた。
でも、宮中があまりにも晴れやかできらびやかなところで、目にするもの全ての美しさに心奪われて、しばらくはそんな不安さえ忘れていた。


「そんな・・・・・・兄があまりにも優秀なようで、できそこないの身である私が、東宮様のご期待にそうことができるかわかりませぬが。
 東宮様のご好意のもと、精一杯仕えさせていただきます」


きちんと畳に手をそろえて、深々と丁寧に頭を下げた。
僕の前で、桜子様は穏やかにうち微笑んだ。
まるで、その御名のとおりに、淡い桜の花が咲き零れるような微笑だと思った。


「まぁ、おかしな方。ご自分のことをできそこないだなんて。とんでもない。
 あなたが宮中でどんなに評判が高いか、ご存じないでしょう? 謙虚なお人ですこと」

「いえ・・・・、そんな。
 私は兄のように学識も無いですし、今までほとんど外に出ることもなかったものですから、
 宮中での作法も慣わしも全く存じ上げませんもので・・・・・・・はたして東宮様のお役に立てるかどうか」


ひたすら畏まっている僕の姿を見て、桜子様も、その傍に並ぶ他の女房たちも、奥義をかざしもせずにくすくすと朗らかに笑う。
何かおかしなことを言ってしまっただろうかと、泣きそうな心地になって縮こまった。


「そんなこと、何も心配要りませんよ。ここにいる女房たちの誰もが、宮仕えの初めの頃はそうだったのですから。
 あなたもすぐに慣れて気がほぐれると思いますわ」


傍らの、萌黄の襲の女房が、すっと近寄って声をかける。


「東宮様、まずは藤様には、お筆と和歌の練習が良いかと思います」
「そうですね。参内して宮中に通う以上、せめて古今くらいは一通りお目を通しておかないと」
「宮中では、出会う殿方が話しかけてくることもあるかもしれないですけど、お恥ずかしければ逃げてしまえば良いのです。
 もっとも、あなたのようにお美しい人ならば、すれ違う殿方のほうが恥ずかしがって逃げてしまうでしょうけれど」


冗談を言い交わしているようで、ころころと鳥がさえずるような朗らかな笑い声がこぼれてくる。
楽しそうな会話の声に、ようやく少し気持ちが和んだ。
またもう一人東宮様の傍に控えていた、少し年嵩の、薄様襲の女房が、そっと言い添えてくれた。


「藤様、あなたにはあらかじめ、尚待(ないしのかみ)の役職を与えられていますが、何も堅苦しく思わなくて良いのですよ。
 院はあなたに、東宮様のお世話役を頼みたいとのことです。
 お世話役と言っても、何も難しいことをする必要はありませんよ。
 東宮様は、お父上の院と、兄上様である今上の帝しかお身内がおりませんから。お一人で過ごされていると、お淋しいとの事です。
 ですので、毎日の遊び相手や、お話し相手になって差し上げてくださいませ」


なんだか夢のような話だと思った。
こんなに綺麗でお優しい方である東宮様のもとですごせるなんて。











「わたくしが男に生まれていればよかったのだけど」


ある日東宮様が、ぽつりとそうこぼしていた。
思わずその言葉を聞きつけて、目を丸くした。東宮様がそんな僕の表情を見て、いつものようにくすくすと笑った。


「あら、そんなにおかしなことを言ってしまったかしら」

「い、いいえ・・・、とんでもないです、桜子様」


部屋の中で、絵を書いたり手習いをしたりしていたときだった。
手習いのために、文字の手本になる文を探していて、桜子様の兄君・・・つまり、現在の帝様の文を見つけたときに、桜子様が少し淋しげな顔をした。


「東宮東宮と、当たり前のように皆わたくしを呼ぶけれど、所詮はかりそめの東宮ですもの。
 兄上に御子が生まれれば、すぐに東宮は代わります。女は帝にはなれませんから」

「いいえそんな・・・・・」

「あら、藤姫、もしかしてわたくしが将来、女の帝にでもなるとお思いになります?」

「ええと・・・・・・、もしかして桜子様、帝様の後を継いで次代の帝になりたいと、そのようにお思いなのですか?」


真剣な顔をして僕が尋ねかけると、けらけらけらと、桜子様はけたたましく笑った。
普通、扇や袂で口元を隠しながら、さやさやとささやくようにしか笑わない宮中の女達に比べると、桜子さまは比較的よく笑うお方だった。
伸びやかで、気取らなくて、愛らしい。


「まさか。冗談のつもりで申し上げたのに、真に受けられるとは思わなかったですわ。
 わたくしにはお父様や兄上様のようには、政なんてとてもつとまりませんことよ。
 だって、女が公で政なんかできるはずないでしょう。藤姫、時々突拍子もなく面白いことを仰るのね」

「はぁ・・・・・・申し訳ありません」


女が公で政なんかできるはずがない。
まだ子供のような年若い少女でさえ、きっぱりとそういうことを言う。東宮という肩書きさえ持っているのに、女の身で帝になるとは思っていない。
僕は、心の中にある人のことを思い浮かべては、少し胸が痛む心地がした。
本来僕がそうあるべきの、もう一人の自分。


「でも・・・・・・そうね、もう女として生まれてしまったのだから、そんなことを言っても戯言でしょうけど。
 だから、男に生まれていればよかったのにと思いましたのよ。
 女であるというだけで、わたくしは、お父様のお役にも兄上様のお役にも立てませんもの。
 わたくしが男でしたら、政の手助けをすることも、本当に東宮でいることもできたのでしょうけど。
 早くからお母様に身罷られて、お父様にも兄上様にも、こんなに慈しんでいただいたのに、何も孝行ができないのがとても残念ですの」


「そんなこと・・・・・・・・・」


女であるというだけで、何もできない。
そうなんだろうか。


「まさかこのまま帝になりたいとは思いませんけど、名ばかりの女東宮であるわが身がうらめしいわ」


(もしかしたら・・・・・・
 姉上も・・・・・・こんな気持ちだったんだろうか)


もし、女でさえなかったら。











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(2010/11/21)




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