【 とりかへばや 6 】



月が琴を奏でている。
柔らかに降り注ぐ月夜の明かりの中に、かすかな弦の音を聴いて、そう思った。

訪れたのは宣耀殿・藤壺。

「琴を弾くようになったんだね、藤」

御簾の外から声をかける。中にいる女房が顔をあげる気配がした。

「兄様」

酷く人見知りする彼女には、男と直接会って話をすることなどもってのほかだ。
だけどこの御簾をくぐる権利は、同じ血を分けた私だけが持っている。

「女房姿が板についてきたね」
「そんな・・・兄様が宮中でいろいろ手助けしてくれるおかげです」

恥らう口調で話す様子は、傍から見ればまるで普通の女だ。

「昔は私や父上でさえ御簾の内には入れなかったのに。宮仕えを経験して、少しは人と会うことにも慣れたのか?」
「ええ・・・・・・・・・」
「ならよかった。うまくやれているようでほっとしたよ。女房から一つ、絵巻物を頂いたので、藤にも見せようと思って持ってきたよ。こういうものが好きだろう」

着物の裾にこぼれる黒髪が少し揺れた。
無性に胸がざわめいた。

「・・・・・・少し、お前の顔が見たいな、藤。もう少し近くで話してもいいか」
「ええ、兄様がそう仰るのならば」

几帳の内に入る。
ほっそりとした、なよやかな姿は、柳桜を思わせた。小顔の色白な頬を縁取る黒髪は、豊かに小袿の上に流れている。
その姿を目にして微笑んだ。

美しい。
これが本来、自分のあるべき姿なのだと思うと、胸が締め付けられるような心地がする。

「ずいぶん髪が長くなったね」

私がそう言うと、さっと頬を赤らめた。

「女性というのは、こんなに髪を伸ばして引きずって、邪魔にならないものなのかな」
「・・・・・・毎日ほぼ室内で過ごしますし、朝の身支度の時には侍女が手伝ってくれますので、特に苦にはなりません」
「そうか・・・そうだよな」

手を伸ばして、藤の髪に少しだけ触れる。艶々していて手触りが良かった。
宮中の他のどこにも、こんなに美しい女はいやしない。

「兄様こそ、直衣姿が凛々しくてよくお似合いで」

返事は、小さく微笑むだけで返した。

「そういえば先日、面白い文をもらったよ」
「面白い文?」

懐に持ち続けていた文のことを思い出して、藤の前に出して広げて見せた。
とある女性からもらった恋文だった。

「女性から・・・・・・ですか」

流れる筆跡は、かく歌う。

『逢ふことはなべてかたきの摺衣 かりそめに見るぞ静心なき』

一行だけ書かれた、狂おしい想いの歌。
女のほうからこのようなものを送るとは、どれほどの想いがあったことだろう。

「それで・・・この相手とはどうなさったので」
「私も多少気になって、夜に会いに行ってみたよ、身分のある女性のようだと見受けられたが、結局名乗らなかった。
 男ならば、こういうときに行きずりの恋に落ちるものなのだろうが・・・・・・」

男ならば、と口走って、はっと口を閉ざした。
一番滑稽な仮定であることは、自分自身が承知している。

「ごめん、大して面白い話でもなかったな」
「いいえ・・・・・・」




「藤、菖蒲がそこに来ているのか」




話に興じていて気づかなかったが、訪ねて来た者がいたようだ。聞きなじみのある父上の声で、そのまま迎えた。

「やあ、二人そろっているところを見るのは久々な気がするのう」
「藤から、宮仕えの様子を聞いていたところです。何も心配するまでもなく順調なようで私も安心しました」
「おお、そうかそれはよかった。何、女東宮の桜子様は、宮でも評判の優しい方だ。あの院がご秘蔵なさったただ一人の女一宮だ。世間知らずな藤でもどうにかよく面倒見てもらえるだろう」

世間知らずだと何気なく父が発した一言に、傍らの藤が、一瞬わずかに表情を曇らせたのを見逃さなかった。
昔から何かしら父が私達のことを嘆くときに、すぐ反発する私とは違って、藤はひどく気恥ずかしそうな表情をして顔を隠すのだが・・・それとは少し違って見えた。

「心配は入りません。藤もだいぶ人馴れしたようで、不安のあまりに急に気を失ったりするようなことは無いでしょう。でももし何か困るようなことがあったらすぐに私に知らせてほしいと思います。私がどうにかうまく対処させましょう」
「ああ頼もしいな。お前のほうも宮中ではたいそう羽振りを利かせているようで、帝の賞賛の声の誉れ高いこと限りない。
 そうだ、先日は、宴の席でのお前の笛の音の素晴らしさをしきりに褒めていたよ。
 せっかくだから、この場で少し聞かせてはくれないか。今宵の月には笛の音がよく合うことだろう。
 藤、お前ももう、習っていた琴を一人前に弾ける頃だろう。菖蒲の笛と合わせて弾いてみせなさい」

藤が小さくうなずいて、琴を用意する。



月夜に溶けることと笛の音が綺麗だった。
















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(2011/2/6)




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