【 とりかへばや 7 】





ぽつり、ぽつりと。
まばらに弾く琴の音が、静寂に満ちた闇夜に溶ける。



(兄上・・・・・・お美しかった)



ぼんやりと、藤は一人、先程言葉を交わした、自分のはらからのことを心に思う。
鮮やかな藍の直衣、凛々しい烏帽子の、精悍な立ち振る舞い。
誰もが褒め称える、物語の中から抜け出してきた貴公子そのままの、麗しの中納言。


「藤、またいっそう、美しくなったね」


菖蒲がそう言って、藤の髪に触れた。
今まで他のものに、いくら美しいと褒め称えられても、少しも喜びを感じることはなかった。
むしろ子供の頃から、辛くて悲しくてたまらなかった。
美しいという賛辞は、その実は、褒めている言葉ではなかった。その逆だ。
お前はそれでも本当に男なのか。藤が幼い頃より度々受けてきた、深い嘆きであり、嘲笑だった。
父の困惑した目が。
周囲のものの呆れた顔が。
何よりも恐ろしくてたまらなかった。
そうして藤はますます、外に出て人と話すことができなくなり、本来の男としての生き方はいっそう困難になっていった。
子供の頃のことを思うと、今でも、涙がこぼれそうになる。


だけど。
ただ一人の血を分けた妹・・・菖蒲だけが、違っていた。
何のひがみも皮肉もなく、素直に、藤の美しさを褒めてくれた。
東の殿に住んでいた自分と、西の殿に住んでいた菖蒲。
初めて会ったときの不思議な心地を、今でも覚えている。
まるで鏡を見ているようだった。
理想の中に描いた自分だ。
なんて綺麗な子供だろう。こんな自分になりたかった。
あの時、きっと互いに、そう思ったはずだった。
・・・・・・いや、違う。
そう感じているのは、子供の頃の自分ではなく、今の自分自身かもしれない。
だけどそれはできない。だからこうして、自分は女房の姿でこの宣耀殿にいる。


「兄様・・・・・・・・・・」


髪に触れた、あの手。
白く細い指の清らかなこと。
他のものならば、たとえ女であろうとも男であろうとも、決して触れさせはしない。
知られてはならない秘密を持つこの身であるゆえに。

もしかしたら自分は、自分の半身ともいえる彼の人に、恋慕にも似た思いを抱いているかもしれなかった。
唯一心を許し、打ち明けることのできる、この大いなる秘密を共有する相手。


ふと、風の音の中に、奇妙な気配を感じた。
誰かがそこにいる。


「兄様・・・・・・・・なのですか?」


人の気配がする。それも、侍女ではない。
もし菖蒲がやってきたのならば、藤が安心するようにそっと一声かけてこちらへやってくるはずだ。
胸騒ぎを感じて、琴を引く手を止めて体を強張らせていた。


(一体、誰・・・・・・)


用心深く相手の様子を伺いながら、身動き一つしない。
思いもよらないことに、体の内に冷たい汗が流れる。

忍び入ってきた男は、低く響く声でそっと囁いた。
やはり、菖蒲の声とは全く違っていた。


「・・・・・・どうか、隠れてしまわないでほしい。決して手荒なことはしない。貴女の姿を一目見たいと願うあまりに、心が抑えられず、やってきてしまった」


低い、だけど静かで、落ち着いた声音。
どことなく気品があり、身分のある殿方なのだろうかと想像できた。


(この男の声、どこかで聞いたことがある・・・・・・)


ほとんど人と交流を持たない藤ではあったが、尚待になってから、女東宮について宮中の儀式の場に居合わせることか幾度かあった。
その中で聞く詩吟の声。
男の声も、その中のどこかで耳にしたことがあるような気がした。


「貴女もよくご存知かと思うが・・・・・・。貴女の兄を毎日傍で見ていると、この人が女であったならと惜しまれてならない心地になる。
 貴女達兄妹は、取り違えそうなほどよく似ていらっしゃると常々世間の話を聞く。
 あの男が、女であったならば・・・・・・。私にはまだ想像が届かない。そんな貴女は、どんなにお美しいことだろう。
 貴女の姿を一目垣間見てみたい。ただ、それだけなんだ・・・・・・・」


(この人は、兄上の・・・・・・・?)


藤はじっとその場から動くことなく、相手の様子を伺っていた。
こんな風に男が忍んで女のもとへやってきたとき、どういうことが起こるか、さすがにその程度のこと承知している。
だから、どんなに気が動転しようとも、相手のことがわからなくても、この男を近寄らせるわけにはいかない。
この秘密を暴かれることだけは、避けなくてはならない。
堅く閉ざした貝のように、藤は身を慎んで御簾の内に控えていた。
こちらの様子を見ている男が、なんとも名残惜しそうな、悲しげな面持ちをしている様子が見える。
万一強引にかき抱かれれば、抵抗しきるかどうか心もとなく、正直恐ろしかったが、幸いなことにそんな浅ましいことは起こらなかった。
決して手荒なことはしないという言葉のとおりに、ただ、じっと藤の姿を見ようとその場に男は待ち続けていた。


琴の音があれば穏やかに過ぎ行く夜も、糸が張り詰めたような静寂に満ちて、やがて紺青の空にほのぼのと白い霞が差し掛かる。


「やはり、容易くお心を許してはくれませぬか。兄君とよく似て、本当につれないお方だ」


男が軽く、自嘲気味の笑みをこぼした。
それでもまだ、その場を動こうとしない。


「・・・・・・夜が明ければ、父や、兄が訪れるかもしれません。
 いつまでもこうしていると、貴方様もお困りになるでしょう。
 深い御心をお持ちならば、どうかここは、お立ち去りくださいませ。
 志賀の浦の風に寄せて、御文を交わすこともあることでしょう」


藤はできるだけ声を抑えながら、そっと男に告げた。
現れた男が兄ではなく、しかも忍び言ってきた者だと気づいたときは、酷く気が動転しかかったものだが。
思いのほか冷静に対応している自分に、自分自身でも驚いていた。
この男は兄を深く知っている。もし秘密が暴かれたなら、菖蒲も同様に立場がなくなると、そう思われたことでの義務感だろうか。


「・・・・・・・そのお声、本当によく兄君とよく似ている。いや、まるで同じお声で、驚きました」


男は、含むような小さな笑いをこぼして、そっと漂う陽炎のようなおぼつかない足取りで、立ち去っていった。



まるで夢を見ているような、白い夜明けだけが残された。












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(2011/5/29)




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